フェムトセカンド #七味とーがラジオ / @melonsode

The Destination is unknown. The Journey is the Reward.
Author: 野澤真一 / NOZAWA Shinichi , version 2.0220330 / Podcast: 七味とーがラジオ / twitter: @melonsode

2009年3月アーカイブ

books 0903

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今月読み終わった本。

サブリミナル・インパクト
下條信輔

下條さんの10年ぶりの新刊。

下條さんはリベットのマインド・タイムを翻訳しているだけあって、
やはり自由意志の問題を意識している。
ただ、一般的な自由意志の議論とは違った視点から論じている。

最近、デネットの「自由は進化する」や、サールの「行為と合理性」、
ノーレットランダーシュの「ユーザーイリュージョン」などを
ぱらぱらめくっているのだけど、
自由意志を論じるための話題はどの本もだいたい同じだったりする。
リベット然り、決定論然り、リバタリアニズム然り。
そういう意味ではいまや閉塞感が強いので、
下條さんのような「潜在認知」「無意識にしてしまう行動」という観点からの
論じ方はむしろ自分にとっては新鮮だった。
そっちの方面から自由の問題を論じる手腕に感服させられた。

新奇性選好と親近性選好が一見矛盾するのだけど、
両立するあたりの話は、具体的な心理物理実験に基づいているだけに
説得力があったし、
その応用としてのコマーシャルの例はうまいと思った。
(背景・シチュエーションは変わる(新奇性)けど、
 登場人物は一緒(親近性)、というやつ)

そのほか、「この研究も下條さんのグループのだったのか!」と
驚くほどのレパートリーだったし、どれもセンスがいいものだったと思う。
この実験をこう語るか、という部分で勉強になった。

受験国語が君を救う
石原千秋

現代文というのは「どれだけ普通の感性をしているかを問うもの」という
言い切りが心地よかった。

自分の中に歴史を見る
阿部謹也

山本義隆氏が「磁力と重力の発見」などで、繰り返し問うている
「なぜ科学はヨーロッパで生まれたのか(日本では生まれなかったのか)」
という問いに通底することを問うていたのが印象的だった。

ヤバい経済学(Freakonomics)

刺激的なタイトルな割には、至極まっとうな本に思えた。
面白かった。

相撲の八百長の話を読んでとてもすかっとした。
以前、相撲をやっていた人に
「あれは見る人がみればあからさまにわかるんだよ」
と教えられていたことが、見事に示されていた。

Saturday night PM21:30

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土曜日の夜9時半からは、TBSラジオの「ウィークエンドシャッフル」を
聞くのが習慣となりつつある。

そもそも、ラジオを聞き始めたのは、引っ越した当時はテレビがなく、
奥さんが「情報摂取のためにせめてラジオを!」と
つけたのがはじまり。
ラジオが毎日PM9:30につくようにセットされている。
(ちなみに今はテレビを視聴できる環境が整っているが、
 それでもやはりテレビはみてない)

はじめは平日だけ聞いてて、
休日はタイマーが作動したら消していたのだけど、
たまたま土曜日に消さずにつけっぱなしにしていたら、
耳に入ってきたのがこの番組。

それが何回か続く間に、この番組内の「シネマハスラー」というコーナーが
激しく面白いということに気付き、
さらに、番組ホストの宇多丸さんのしゃべりが抜群によく、
時折、発言から成熟した知性が覗き見えることもあり、
この人は信用できると確信し、リスナーとなった。

リスナーとなる決定的なきっかけとなった放送はこれ。

シネマハスラー '09 2月21日 20世紀少年<第2章>最後の希望
(MP3ファイルへのリンクです)

長さは20~30分です。時間がある方は聞いてみて欲しい。
(ただ、この回は宇多丸さんじゃなくゲストの方が主にしゃべってた)

成熟した知性が垣間見えたというのは、例えば、

「祝・番組放送100回記念! 今こそ麻生総理に教えたい推薦図書」特集

というのがあって、その中で書籍が3冊紹介されたのだけど、
その中にスタンレー・ミルグラムの「服従の心理」が入っていたとこ。

正直、ミュージシャンだから"唐揚げ定食"的な新書でも紹介するかな?と
思っていたら見事に裏切られて驚いた。
("唐揚げ定食"的 = ランチ一回分の値段で手軽に脳の栄養になる)


服従の心理

スタンレー ミルグラム (著)

山形 浩生 (翻訳)

("服従の心理"は長らく絶版だったのを新たに山形さんが翻訳し直したとのこと。)

シネマハスラーというコーナーは公開中の映画を一つ取り上げて、
その映画を宇多丸さんが饒舌に熱い批評するコーナーで、
褒めちぎる回もあればバッサバッサと切りまくる回もあるけれど、
基本的には作品・制作者に対して誠実で絶対的なリスペクトがあって、
批評の観点も映画の"文法"についてのきちんとした素養を踏まえて、
正確に的確に問題点や評価すべき点を述べてくれるので、
無知と身勝手をふりかざした批評とは一線を画す、
聞いていて小気味のいい批評となっている。

それにしても、このウィークエンドシャッフル。
ラジオというクラシカルなメディアにおいてとても先鋭的な番組である。

放送後に番組の内容に踏み込んだ放送後記がブログ形式で、
毎回アップされるし、
きちんとその番組内で紹介した音楽なりアイテムなりも
リンクが貼られている。
トークホスト自らが書いているというのは偉い。

しかし、何よりも先鋭的なのは、
番組の音声ファイルを公開していることである。
ラジオの音声がMP3になってて、番組の公式ホームページから聞ける!

番組のホームページでポッドキャストで堂々と配信している!

(それはたぶん希有なことなので、二回言ってみた。)

時々、権利の関係で、MP3を公開できない場合もあるらしく、
それについての宇多丸さんの発言。

「来週は権利の関係で、MP3を配信できません!
 だから来週は生で聞いてください!
 TBSラジオが聴けないという地方にお住まいの方、
 残念ですが、諦めるか、
 あるいは、"うpぬしキボン"、という感じですかね。
 ワハハハハ・・・」

"うpぬしキボン"って・・・。
普通はこんな発言、できないでしょう。

先鋭的、というか、今の時代からしたら至極まっとうなことなのだけど、
でも他の番組ではやってないことでしょう。

というわけで、
「TBS RADIO ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」、
略して”タマフル”は、
土曜PM9:30にstay tuneしなくても聞けます!

Hot medieval japan

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面白い記事を見つけた。

asahi.com(朝日新聞社):京都3月気温、1200年間推定 ヤマザクラ満開日から - 環境

・・・

 青野准教授は92年ごろ、ヤマザクラの満開日が3月の気温の変化から予測できることを応用し、逆に開花から気温を推定することを思いついた。記録が残る過去の気温などをもとに統計的に割り出すと、満開が4月1日なら3月の平均気温は9.9度。同様に10日なら7.4度、20日なら4.3度になるという。

 満開日に関する古いデータは、天皇や僧侶らが書き残した日記など100点以上の史料を探し出し、花見や観桜会、満開の花が贈られたことなどに関する記述を調べて集めた。

 その結果、13世紀ごろまでは太陽の活動が活発だったことなどから7度を超える温暖な年が多く、17〜19世紀は安定的に気温が低かった。近年は約200年前に比べると3度以上も上昇しており、そのうち約1度分は温暖化の影響とみられるという。

・・・

桜の開花日から当時の気温を推定するというのが面白いし、
桜がいつ咲いた!ということを律儀に記録してしまう日本の桜狂いの文化がすきだ。

探したら簡単に青野さんのページが見つかった。
青野靖之さんのページ

で、その朝日新聞の記事によると、13世紀頃は暖かかったらしい。
そっか、中世は暖かかったのかと。
やっぱりなと。

すこし前に京都に行ったとき京都御所を見てきた。
京都御所はいくつかの建物があって、
江戸時代を思わせる建築もあれば、平安時代を思わせる建築もあった。

その平安時代を思わせる建築が、
見ていてすごく涼しそうなのである。
涼しそうというか、冬だったら間違いなく寒いだろうっていう感じ。

CIMG3644.JPG

それをみて、平安時代とか鎌倉とか中世の頃は
今よりも暑かったのではなかろうかと思ったのだった。

それからもうひとつ、中世は暖かかったという考えを裏付けるのが
グリーンランド
グリーンランドはその国土の大半が雪や氷に覆われているのに、
なぜ”グリーン”ランドというのか?

昔は本当に緑が生い茂るグリーンな島だったのではないか。
それが後の寒冷化で今のような氷の島になってしまったのではないか。
というようなことをぼんやりと思っている。

Parents unknown

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親知らず。

左上の一本は完全に生えきっている。
ただし、方向がすこし変。

残りの3本のうち、下の2本はしばらく前から、
もうかれこれ1年近くは中途半端な状態で生えている。
最近、左下の親知らずは尖っているところが歯茎から飛び出してきていて、
右下の親知らずは歯茎の下に確実に生えているのだけど
歯茎を突き破る気配がなく、
前の方がかすかにめくれているような感じで歯が見えている。

右上の親知らずは生えてこないなと思っていたら、
ちょっと生えていた。
歯茎を突き破って尖ったさきっちょがちょろっと見えている。
猛烈な追い上げだ。
下の二本より先に生え終わるかもしれない。

下の二本は少し前までよく炎症を起こしていたけど、
最近はブラッシングに気を配り、体調も比較的良好なので、
あまり炎症は起こらない。

それにしても、
26歳にもなって歯が生えるんだなぁ、と。

まあ、親知らずだからこれぐらいの年で生えるのはわかるのだけど、
歯が生えるっていうのはすなわち、身体が成長しているっていうわけで、
26歳の身体が”成長”しているっていうのは、
なんだか不思議な感じ。
そういえば、最近、身長が伸びた気がしたことがあったけど
あれって、気のせいではなくてほんとにほんとだったのかしら。
第三次性徴?(んなもんはないし、性は関係ない)

うちの親父はいつごろ親知らずが生えたのだろう?
今度聞いてみよー、どうせ覚えてないだろうが。

もし、親父がその頃からブログを書いていて、
親知らずに関する記事をこうやって書いていたら、
検索することでそういう記事を見つけて、
それがいつぐらいだったかわかる。

それでふと、オレのこのブログがあと50年ぐらいウェブ上に残っていて、
それを自分に子供ができて、そいつが読む日がくるのだろうか?
と思った。
さらには孫やひ孫ができて、やっぱりそいつらがいつかこれを
読んだとしたら?

そういう事態は未だかつてなかったことだろう。間違いなく。
そもそも日記なんていうのは人に見せないものだったし、
まめに書く人は少なかったし、
仮にいてもそれが次の世代に引き継がれることはあまりなかったはずだ。

ウェブ上で書かれる日記と日記帳に書く日記は
人に見せることを前提としているかしていないか、という点で、
決定的にことなるわけだけど、
ライフログとしての性質はどちらも持っているわけだし、
何かを伝えるという意味では前者の方が優位だろう。

前の世代のこれだけ鮮明なログが読めるというのは、
すごいことじゃないか?
親父が若かった頃の写真なんか見て、
あー、昔はこれぐらいは髪の毛あったんだ、とか、
いかにもその時代を感じさせる服だとか、
当時の親父だとか越谷の風景だとかを、
なんとなく忍ぶことができる。
でも、ブログが読めればそれとは比較にならない生々しさで、
当時のその人にアクセスすることができる。

オレの場合だと2001年の時点から日記が残っている。
はっきりいって恥ずかしすぎる代物なのだが、
それでも晒している。
2001年だと、ええと、18歳か。
ひとことひとことが幼稚すぎて死にたくなる。

まあでも、一握りの芥川賞とかとる人は置いておけば、
平均的な高校生というのはこういうものだろうとも思う。

自分の子供が18歳になって、こういうのを読んで、
あるいは26歳になってまさにこのエントリーを読んだとして、
それは、どういう変化をその子供に起こすだろう?
それは2001年に18歳の浪人生だった他人の日記、
あるいは伝記などのノンフィクションを読むのとは
幾分異なったものを与えるだろう。

もしかしたら、
「へー、お父さん馬鹿だったんだね。ぎゃははー」
で済むかもしれないけど、
多感な子供であれば確実にもっと強烈な影響を与えるはずだ。
だって、やっぱし肉親だし。
そうしたら、その子はどんな風に成長するのだろうか?
そういうことを想像するのは面白い。

そうして、そのようなログが1世代、2世代と蓄積していって、
自分のひいひいひいひいひいおじいちゃんのログが読めるころになったら、
それはいまとは本質的に異なった生活・文化・世界観・人間観に
なるのではあるまいか。

ウェブの誕生は産業革命に匹敵するほどの革命だ、
と個人的には思っているけど、
実はそれ以上に人類史上の歴史的な転換点がいまなのかもしれない。

というようなことを、
風呂場で親知らずをぐりぐりと触りながら考えていた。

Matsuyama pictures

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松山で取った写真。

道後温泉はとってもよかった。
建物の佇まいがすばらしいし、脱衣所・浴槽の雰囲気もよかった。

IMG_0064.JPG

↑正面付近から。

IMG_0068.JPG

↑建物の左手側から。

それからこっちは松山城に昇るロープウェイ乗り場にあったもの。

IMG_0055.JPG

↑赤シャツに扮するノザワシンイチ

お土産は定番の「一六タルト」とじゃこ天を買ってきた。

この一六タルト、見た目はロールケーキっぽいけど、
中の黒いのはあんこで、外側のスポンジはカステラに似てるかな?
あんこからは柚の香りが漂う。
これを食べるのははじめてじゃないのだけど、
なんでこれを「タルト」と呼ぶのだろう?

Honeymoon salad

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少し前にハネムーンサラダを作ってみた。

IMG_0038.JPG

むかし、高校生のころ読んだ漫画で、
二宮ひかるの「ハネムーンサラダ」というのがあって、
あれは強烈な漫画だったからずっと覚えている。

ハネムーンサラダ(5)
二宮ひかる

その中に件(くだん)の”ハネムーンサラダ”が出てくる。

ハネムーンサラダというのはレタスだけのサラダのこと、らしい。

lettus only (レタスだけ)

これは音だけだと次と(ほぼ)同じ

let us only (私たちだけにして=二人きりにして)

だから新婚の二人が食べるのだ、というようなエピソードが
作中で出てくる。

これがずーっと頭の中にあって、
結婚したらこれを食べてみようと思っていた。
けど忘れてた。

で、結婚3ヶ月が過ぎた頃、ふと思い出して作ってみた。

作るといってもレタスちぎって終了なのだけど。
でもこれだとたぶんおいしくないので、
イタリアンドレッシングをかけて食べた。

奥さんと「草食動物みたいだね」といいながら食べた。
まぁだから何だって感じですが。

* * *

ただこの話、高校生の頃は素直に信じていたけど、
今になって聞くと、どことなくうさんくさい。
作者の創作かな?とhoneymoon saladでググってくると、
極僅かだけど英語でそれらしいことを書いてある記事があるので、
たぶん本当なんだと思う。
(でも検索結果の上位をこの漫画がほとんど占めている)

ハネムーンサラダは他にも

Lettus alone without dressing (ドレッシングなしでレタスのみ)

=Let us alone without dressing (私たちを裸で二人だけにして)

という言い回しもあるらしい。
というか、こっちが正統っぽい。
露骨だー。

こっちが正しいとすると、ドレッシングをかけたのは邪道だったかも。

* * *

それはともかく、「Honeymoon、蜜月」という言葉の持つ質感がすきだ。

蜜、なのである。
甘いのである。
砂糖じゃなくて蜜だから、あまあまだ。

付き合いたてのカップルなんか、まさにこういう状態だ。

今までずっと蜜月の"蜜"の方に注意が向いていたけど、
実は"月"の字の方にも思っていたより深い意味があると知った。

HotForWords : Happy Holidays!

HotForWordsが上記リンクで
Honeymoonの語源について解説しているのを見て知った。

英語のHoneymoonというのは他の言語から借用してきた言葉のようだ。
すなわち、蜜月という言葉がHoneymoonの直訳であるように、
Honeymoonというのはフランス語の lune de miel の直訳なのだ。
(そういう単語をcalqueと呼ぶ)

それで、lune de mielも結局 "月 (lune)" と "はちみつ(miel)" なわけだけど、
"月"という表現には「ひと月で満ちて欠けてしまう」、
という含意があるということ。
つまり一定の期間しか続かない、ということ。

この"月"という文字に込められた意味を知ったとき、
頭の中に感嘆符が5個ぐらい並んで、大発見をした気がした。

どんなにお互いが好き合って熱愛中でも、
じきに冷めてしまうということが古今東西問わず、
普遍的にそうなっていたというのが、
おかしいようなせつないような気がした。

* * *

ちなみに、ハネムーンの語源はこの他に、
古代ゲルマン人の風習で子作りのために
一ヶ月間ミード(はちみつを発酵させたビールのようなお酒)を飲んで
精力をつけたために由来するという説があるらしい。

ハネムーン - 語源由来辞典

* * *

そういえば、日本語で「ハネムーン」というと、
"新婚旅行"という意味で使われるのが普通か。

こういう、言葉が本来持っていた豊かな意味が失われて、
別な、しかも大して深みのない意味に言葉が置き換わってしまうのは
個人的には悲しいなと思う。

Yoishire after load spa

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学会発表終了。
ほっとした。

会場の愛媛大学は、どこななく、トロピカル?だった。

その後、松山城に登って降りて、
路面電車に乗って道後温泉に行った。

道後温泉が思いの外すてきだった。
「千と千尋」の湯屋のモデルになったと言われる建物が
とても気に入ったし、中の浴槽の設いも好みだった。

情緒が残っている数少ない場所だと思う。

風呂から出た後、
近くの寿司屋で酒を飲みながら飛行機の時間まで待った。
日本酒を熱燗で2合ほど。

寿司屋からバス乗り場まで歩くきながら、
身体のかすかな火照りを感じ、
口の中にまだ残っているお酒の甘みを反芻した。

酔いしれるとはこういうことかと、思った。

Matsuyama

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学会のため松山に来た。

金曜日まで滞在の予定。
口頭で発表する予定なのだけど、
まだ発表のマテリアルができていない。
なので会場には行かず、ホテルや近くのカフェでスライドを作っている。

飛行機に乗るとどうにもこうにも首から肩が凝る。
バキバキに凝る。
腕を回したり伸ばしたり後ろに反り返したり、
腕立て伏せしたりを合間に挟みながら、
思考し考えをスライドに反映させていく。

ひとつのことを、ともかく考える。
こんなに集中できたのは久しぶりだ。
普段はさまざまな文脈が交錯する中を生きていて、
些細だけれど間断なくinterruptionが入って、
結局は思考が細切れの断片的になってしまっていることを実感した。

やはり断片的になってしまうと、
どうしても深いところまで入っていくことができない。
こうやって普段の文脈の束縛から放たれて、
メシとクソのことだけ気にしてあとはひたすら考えるということをするには、
こうやって違う土地に来て1人になるのが一番いいのだな。

ひょんなことから乱数生成課題というものに
関わりはじめてしまったわけだけれでも、
これはこれでやっぱり悪くない気がする。

自発性というものをやっと違った側面からみることができるようになって、
P-E分布を勉強してうまくすれば、
それを説明する理論的な枠組みを作ることができるかもしれない。

RNGはワーキングメモリの文脈でも議論されていて、
ワーキングメモリのあたりの話には
いままで見向きもしなかったけれど、
そのあたりの知見も自発性を支える基盤として使えるかもしれない。

明日もまるまる一日考える。

500G external HDD

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500Gの外付けハードディスクを買った。
20,400円だった。
1Gのハードディスクが3万円だった高校生の頃に比べたら、
驚くべき価格破壊だが、
これから先もこの傾向は続くんだろう。

* * *

M1のころ、ゼミのアナウンスをMLに流すという仕事を1年やっていて、
そのあとヘライさんに引き継いでもらった。
茂木研のウェブを更新する仕事も1年は真面目にやっていたけど、
あとはイシカワくんにお任せしてしまっている。

おふたりとも本当によくやってくださっていて、
頭が下がる。
オレは1年で音をあげたと言うのに、
すでに2年目、3年目に突入している。

* * *

今は年度末で、それに絡んだ用事ですずかけに来た。
できれば雑用はラボのメンバー全員で分担して、
1人の人に負担がかかりすぎないようにしたい、と画策しているが、
それがなかなか難しい。

どうしても、1人の人が1つの仕事を継続的にする方が、
その仕事に関する知識が蓄積されて仕事自体に慣れてくるので、
効率はよい。
逆に全員が同じことをできるようにしようとしても、
それを教える手間がかかって逆にコストがかかってしまうし、
そもそもそれがうまくいったことがない。

なので最近は、みんなで分担するという理想は放棄して、
可能な限りコストをかけないで雑用をこなす、
ということを心ががけている。

* * *

すずかけ台の生協前の舗装工事は終わり、
真新しいタイルが敷き詰められていた。
去年は入り口付近の階段が大幅に改修工事がされた。

やっぱり予算執行の締め切りの関係で去年もいまも
この時期にこういう工事をやっているんだろう。

僕ら在学生にしたら「こんなとこちょこっと工事したってなんにもならん」
と思ったりするのだが、
10年、20年したらこういう小さなキャンパスの変化が積み重なることで
ここはもっと全然すてきなキャンパスになっているのかもしれない。

すずかけ台キャンパスはどう贔屓目にみても、
辺鄙なところにしか見えないし、
すきにもなれないのだけど、
でも、かといって憎む気にならない。

ここはかつて、古代文明が栄えた場所で、
今は没落してしまった場所。
あるいはあと300年したら日本の中心となる場所。
どちらにしても今はぱっとしない場所。

そういう風に、
"いまこの時代だからここはこんなに辺鄙なだけ"で、
"いつか時代が違っていたらここはたくさんの人を惹きつける魅力的な場所"で
あるかもしれないという仮想を持つことで
この場所で抱いてしまうガッカリ感を慰めてみようと試みる。

B semi, final inch

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すずかけへ。

ブザキを読む会。通称Bゼミ。
3人でひたらすらブザキを読む。

Rhythms of the Brain
G. Buzsaki

いまはCycle 11で、海馬、Place cell、θオシレーションの話。
2次元平面でのPlace cellのomnidirectionalな性質と
1次元通路でのPhase precessionによる左右の非対称性の話。

今のところの読書速度は2~3ページ毎時。
おそろしくのろのろと3人であーでもないこーでもないと言いながら、
「解読」作業をしている。

Bゼミ Wiki*

いつまでたっても終わらないぃぃ!と、業を煮やす時期は過ぎ、
すでにこれがいつか読み終わるものなのだということも
忘れかけていた今日この頃。

最近は読むペースも安定してきて、
一回に読めるページ数が勘案できるようになり、
二週間に1回という開催ペースがちょうど良いということが
体感としてわかってきて、
最後まで読むのにどれぐらいかかるか、というのが
見積もれるようになった。

  • 3月25日(水)Cycle 11.0 石川 4th /4
  • 4月 8日(水)Cycle 12.0 野澤 1st /2
  • 4月15日(水)Cycle 12.0 野澤 2nd /2
  • 4月28日(火)Cycle 13.0 青木 1st /1

予定を立ててみてびっくり。
これだとゴールデンウィークの前には終わるではないか!
永遠に続く気がしていたので、
このような見通しが立って嬉しかった。

第一回開催が去年の3/11なので、
すでに1年経過したことになる。

それなりの時間が経過したわけで、
議論の仕方はうまくなってきたと思う。

無闇にわからないことを追求しすぎない。
適度に休憩を挟む。
ある程度いったらやめにする。欲張りすぎない。
分かった気にして流さない。
できるだけ正確に誠実に疑問や違和感を表現して共有する。
次の予定はその日に決める。
あまりつよくスケジュールを強制しない。

など。

肝心の内容は、見事に頭のなかから流れ去ってしまっている。
それでもきっと、大量の砂の中からほんのわずかな砂金が残るぐらいには、
頭の中にその痕跡が残っているのではないかと思う。

在りし日のBゼミ風景。

bsemi.JPG

CHO expired

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ゼミ。

あたりまえのように待ちぼうけを食らった後に、
高野さんが論文を一本紹介。

その後、
最近にしては珍しく、茂木さんがあさりに行こうと言いだし、
久々の宴であった。

あさりに来ると席が空いている限りお座敷のほうに座る。
あさりは古き良き時代の居酒屋の雰囲気がそのまま残っていて、
仕事帰りのサラリーマンでいつも賑わっている。
この店ではお客さんも店員さんも、とても気持ちよく、
この場所に相応しい存在の仕方をしている。

店員さんはたくさんのお客さんを前に大わらわしながらも、
楽しそうに自信を持って働いている。
注文を聞いて、品物を運んで、空いたお皿を引っ込め、
お客さんと愛想良く言葉を交わす。
そのようにして忙しく立ち働く様からは
楽しくて仕方がないという印象を受ける。
それは、サービスを受ける側の人間には
何よりも得難いものであると思う。

一方でお客さんも清く正しくくだを巻き、愚痴を言い合い、
同僚と豪快に盛り上がっている。
・・・ように見える。
実際には何が語られているのかは知らない。
それが同僚なのか、部下なのか上司なのか、取引先の相手なのか、
そういうことがわかるほど詳しく観察なんかしない。
ただ、その人たちはその人たちが囲む机の周囲1.5メートルあたりに
独自の世界を作り上げ、その中に没頭している。
だから周りの客のことなんか気にしない。
おのおのが独自にその中での時間を噛みしめている。

そのような客の在り方は、
居酒屋においては至極まっとうなものであり、
その中にいるのは気持ちがいい。

昼時にランチを食べにみんなで外を歩いていると、

ねぇねぇ、ちょっと、あれ。
(となりのひとの肩をトントン)
コショコショ
え、あ、きゃっほんと
コショコショ

というような声が通りすぎていったりする。
いわずもがな、いまや時の人の茂木さんを見ての反応なのだが、
そのような(故意でもないいし悪意もないであろうが)干渉に、
どことなく雰囲気をしらけさせられたりすることがある。

そのようなことを考えると、
あさりは何の気兼ねなくラボのメンバーで盛り上がれる、
貴重な場所であることに気がつく。

本日のメンバーは全部で8名で、
お座敷の部屋の片側全部を占領することはなかった。
お座敷の片側をすべて占領してもぎゅうぎゅう詰めだった頃が
懐かしく感じられた。

asari090312.jpg

asari090312b.jpg

今年のCHO(チーフ・ハナミ・オフィサー)は石川くんに決まった。
毎年オレがやっていたけれど、
やっとCHOから解任された模様。

今年もまたオレがやるのかなー、めんどくさいなーと思っていたので、
それを見透かされていたのかもしれない。

バイトで渋谷に自転車で行くときに、よく目黒川沿いを走る。
目黒川にはずらーっと2、3kmは桜並木が続いている。
これは咲いたらさぞかし見事だろうといまから楽しみにしている。
ここで花見がやれたらなぁと思いつつ周りを見ながら自転車を走らせるのだが、
なかなか人が集まって座して飲み食いできるようなスペースがないのが残念。

Ume at hot water island

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本郷に行った。

電車代をケチってお茶の水から歩いてみた。

途中で湯島天神を通りがかって、思いがけず梅の花を見ることができた。

湯島天神、いいですなー。
梅の季節、いいですなー。

* * *

プロセス・アイを読み終わった。

文体が全然違う!と言ったけれど、
内容は茂木さんそのもの!って感じだった。

ラストの一行がよかった。

* * *

砂で曼荼羅を描くシーンがあって、
聖☆おにいさんの以下のヒトコマ(s)を思い出してしまった。

聖☆おにいさん

2巻

* * *

Thank you, helthy market !

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友達の"健市"くん(あるいはヘルシーマーケットくん)に誘われて、
東京ドームにWBCの日本対韓国戦を見に行ってきた。

イチローの打席になると、
満員の東京ドームスタンドのあちこちで、
200個くらいのカメラのフラッシュがバシバシバシーっと
光るのがきれいだった。

いわむ、げほんげほん、もとへ、健市くんは相当な野球通で、
野球のことに関してはものすごく詳しいので、
となりで解説してもらって、勉強になった。

野球通といっても、特定の球団のファンというわけではない。
うまく説明できないのだけど、
その選手がどのように優れているか、どうして優れているか、
個人がどのようなプレーをし、
それがチームのプレーの中でどのような位置づけで、
試合の勝敗を分けたのはどのようなものであったのか、
というような視点で野球を見ている(のだと思う)。

だから、特定の球団、特定の選手を熱烈に応援するような、
いわゆる典型的な野球観戦をしない。
周りがヒットやストライクやゲッツーや外野フライで
一喜一憂して、
ドンドンバコバコわーわーぎゃーぎゃー
やってるなかで、
ふたりで淡々と試合を見ていた。

彼は春や夏になるとプロのスカウトの人と一緒に
甲子園で高校球児を見たりするほど、
熱心に野球のことを考えていて、
実際、信じられないレベルでいろいろと解説してくれた。

僕らは韓国側のスタンドに座っていて、
目の前に数十人の韓国人の応援団がいた。
1人の男の人が点呼をとりながら
まわりの人たちは空気の入った棒をボンボン打ち鳴らし、
韓国語で何かを絶叫していた。
チアガール姿の女の子が4人、韓国の攻撃の回になると、
声援に合わせてひたすら踊っていた。
(かなり美人だった)

正直、小さい頃からテレビの野球中継とか
絶滅すればいいのにと思っていたくちだ。

野球にはほとんど興味はないのだけれど、
何年かに一回の野球の世界的なお祭りだし、
となりに野球に詳しく楽しい友達がいたので、
非日常の空間を十分満喫することができた。
イチローとかダルビッシュとかみれたし。

like water ec*tacy

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神田にある如水会館というところで、
普段のランチよりは少し割高の、
だけど本来のその料理の価格にしては大幅に割安のランチを食べた。

スモークサーモンとスズキのマリネ
はまぐりと白魚のスープ
牛ヒレ肉のステーキ
デザート
コーヒー

奥さんと、うめーうめー言いながら食べた。

その後、品川で映画をば。
ヤッターマン。
最近のCGはすごいんだなーと思った。
グラビアアイドルの写真が
フォトレタッチソフトでいろいろ修正されて美化されるみたいに、
CGで役者の演技を上手に見せられるような時代が
早晩来るのではないか、という皮肉を考えた。

制作者がヤッターマンという作品を通してどんな映画を作ろうとしたのか、
その意図のようなものは感じ取れたのだけど、
でもその意図を達成することにどれくらい意味があるのかはわからなかった。

*  *  *

こないだのことが気になって、
帰ってきてから奥さんの本棚をガサゴソと漁る。

あった。

プロセス・アイ
茂木健一郎

いつか読もう、と思ってのびのびになっていたのだけど、
この間の日記でも書いたように、
デジャ・ブを感じるぐらい自分に重なる記述を見つけて、
それで俄然、読んでみたくなった。

少し読んでみて、軽く驚いた。
いつもの茂木さんの文体ではないから。

ズバズバとまるではじめから切れ目がついていたかのような鋭利さで、
情景や心境を表現していく。
表現と内容がぴったりとマッチしているので、
一行一行がスッスッと頭に難なく入ってくる。

これを読んだ後だと、クオリア日記の文体が異様に緩慢に見える。
異様に、というのは生身の茂木さんの口調に近い
速度と切れ味があるから。

物語はチュニジアからはじまる。
しばらくは、本を読める時間ができるのが待ち遠しくなりそうだ。

Another shoes

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一つの時代が終わろうとしている。
あと数年早かったら、もう少し違った景色が見えたのだろうな。

雨の日が続く。
これは春と冬のせめぎ合いのとばっちりで、
かならず春が勝つから、
目くじらはたてない。

不平不満をぶつくさ言うのではなく、
確信を持って新しいことをしよう。

雨で靴がぐっしょり濡れてしまったので、
買い物には別の靴を履いて行った。

しばらくずっと、革靴しか履いていなかったので、
スニーカーの感触は新鮮だった。

スニーカーってこんなに柔らかかったっけ。
靴下越しにスニーカーの生地が吸い付くような錯覚がする。
地面を蹴る感触がダイレクトに足の裏から伝わってくる。
同時に、いつもより強く土を蹴る力が地面に伝わる。

もっとずっと速く、遠くに、行ける。

Sense of already seen

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今朝の茂木さんのブログにプロセス・アイの抜粋があって、
それを読んだら軽くデジャ・ブを感じてしまった。

プロセス・アイ
茂木健一郎

連雀町の"たけむら"や松屋。
御徒町から本郷へ向かう途中の上り坂とその途中にある湯島。
ツヨと軍司の引っ張る者と引っ張られる者の関係性。
ツヨと千佳の切ない関係性。

浪人生のころの自分がそのまま描かれているようだった。

東大に在籍していたことは一度もないにも関わらず、
本郷、湯島、御徒町、上野、秋葉原、お茶の水は
その頃の自分にとって庭であり、たくさん思い出がある。

連雀町もそのころよく行った場所だ。
夏の盛りの昼間に松栄亭に行って、
「授業があるからビールは一本だけにしておこう」
と言いつつメンチカツや洋風かき揚げを肴に
ビール瓶がさらに2、3本空になったりならなかったり。

プロセス・アイに描かれている松屋での酒の飲み方の記述が"正しい"。

ほとんどの人が勘違いしているけれど、
ラーメン屋でラーメンを食べたり、
牛丼屋で牛丼を食べたりするように
そば屋でそばを食べたりはしない。

元来、そば屋というのはそばを食べる場所ではなくて、
酒を飲む場所である。

"いたわさ"や、玉丼(親子丼にあらず)や、"とりわさ"や、
"そばがき"や、天種や、ニシンや、”そばみそ”や、
”のり”などを肴にお酒を飲む場所であり、
「そばを食わずに腹が一杯になっちまった。
 そばはまた今度にするか」
とそば屋を後にするのがそば屋の正しい在り方である。

まあ、池波正太郎の受け売りですけど。
あるいは杉浦日向子さんもそういうことをおっしゃっていた。
そば好きとそば屋好きは違うのである。


そもそも、そばなんて腹がはち切れるぐらい食べたところで
2時間もすれば食べたことが疑わしくなるぐらい腹が減る食い物じゃないか。
消化が良すぎるのである。
そばというのはおやつみたいなものなのである。
実際、そばがきはおやつとして食べられていたわけだし。
- 蕎麦がき - Wikipedia

そんなことを考えたせいか、
今日のお昼はCSLからすぐのところにある立ち食いそばのお店で、
もりそばと牛丼のセットを食べてしまった。
立ち食いそばのお店なのに、4脚だけイスがある不思議。

そば屋は酒を飲むところだと言っておきながら、
そば屋でランチを食ってるじゃん!とツッコまれそうだが、
ラーメンとカップラーメンが本質的に違う食べ物であるように、
そば屋と立ち食いそば屋もやはり本質的に違う飲食店である。
(ということにしておいてください。)

imagine the structure

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親父に頼まれてとあるデータベースをMySQLとPHPを組み合わせて作っている。

参考図書はこれ。

標準MySQL 改訂第3版

この本の内容は中途半端といえば、中途半端なのだけど、
PHPもMySQLも扱ったことがない者にとってはこの本は良書である。
Web経由でデータベースを扱う一連の必要な手順を
一通り網羅してくれているので助かる。

  • MySQLとPHPのインストール
  • データベース(RDBMS)についての概論
  • PHPの基本的な文法
  • MySQLの操作法
  • PHPやPerlを使ってMySQLを操作するプログラムの方法

それらをすべて書いてくれている。

PHPもMySQLも、これまでもいくらかかじったことはあったけれど、
今回のお勉強でまた一歩前進、という感じ。
ただ、PHPよりはPerlの方が100倍はプログラム速度が速いので、
PHPとMySQLの相性の良さをさっぴいても、
PerlでMySQLをいじった方がはやいのではないかと、思ったり。
あとはもっとまともにJavaScriptが使えるようになれば、
もうWebサービスを作る分には怖いもの無しだ。

ただ、そうやって言語のことを勉強しても、
結局はプログラミングのスキルよりも適切なモデリングができるかどうか、
ということであるということを改めて思う。

修士の時の授業でUMLでモデリングする授業があったけど、
ああいったモデリングをする訓練は、確かに大切だと思った。
(あの授業で訓練の効果があったかは疑問だけれども)

データベースを作るにしても、
どういうテーブルを作って、その中のフィールドをいくつ作って、
ひとつひとつのフィールドの型を決めないといけない。
それはプログラムのスキルと関係なくて、
どんな風にデータ構造を作るかということであり、
システムを作る上で一番の肝になる。

それは何にでも言えることで、構造を頭の中でイメージできていないと
構造を作るスキルがあってもシステムはつくれない。
一方で、構造を構成する部品にはどのようなものがあり得るか、
ということは具体的なスキルがないとわからないし、
構成する部品をそれなりに具体的にイメージできないと
全体像をイメージすることは苦しくなる。

* * *

そんなこんなで、PHPとMySQLで日が暮れたりするのだが、
こんなことよりももっと優先すべきことがあるんじゃないか
とも思ったりする。

やりたいことはいろいろあるけども、
pendingに次ぐpending、stuckingに次ぐstucking。

プログラムの速度と英語を読む速度があと10倍ぐらい速くなれば、
思いついたことをすぐ実現できるようになる、
気がする。

Dr. Isolated Island

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奥さんが仕事のために「Dr.コトー診療所」の既刊のもの(1~22)をすべて購入したので、
勝手に借りてものすごい勢いで読破。

Dr.コトーはヤングサンデーでやっていて、
ヤンサンはもう廃刊なので、
Dr.コトーも連載が終わったのだと思っていたけど、
別の雑誌で連載を継続しているらしい。

巻が10巻を超えたあたりから、
どんどん読むのがしんどくなってきた。
つまらないとか難解という意味ではなくて、
"重い"話になっていった。
はじめは離島で孤軍奮闘する爽やかな医療漫画だったのに。

話が一段落すると、きちんとハッピーエンドを見せてくれるのだけど、
次第次第に、単純なハッピーエンドではなくなってきて、
話が一段落してもスカッとはさせてくれなくなる。

通奏低音のように作中には拭いがたい重圧が漂い、次第に濃くなる。
やがてその重圧の正体が鮮明になってきて、
作者は、生を悲劇としてとらえて描いているのだと思った。

それは、ただ悲しいとか絶望的だとか、暗い話だとか、
そういう意味で「悲劇」と言っているのではなくて、
同じ事象の異なる見え方として喜劇性と悲劇性とがあって、
その悲劇性の方を描いているということ。

「いま、ここ」の奇跡のような巡り合わせと、
今この瞬間のかけがえのなさとその脆さ。
今の自分も今のこの世界も絶対じゃない。
時間が容赦なくすべてを相対していくことの無慈悲と救い。

そのセンチメンタルのせいで、
本郷からの帰りの電車の中で、
久々の晴れ間に差し込む光と、
それを照り返す街の彩度がやけに鮮やかにみえた。

「いま、ここ」の生の輪郭を否応なく魅せてくれる
悲劇の効用を、
ひさしぶりに思い出した。

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