奥さんが仕事のために「Dr.コトー診療所」の既刊のもの(1~22)をすべて購入したので、
勝手に借りてものすごい勢いで読破。
Dr.コトーはヤングサンデーでやっていて、
ヤンサンはもう廃刊なので、
Dr.コトーも連載が終わったのだと思っていたけど、
別の雑誌で連載を継続しているらしい。
巻が10巻を超えたあたりから、
どんどん読むのがしんどくなってきた。
つまらないとか難解という意味ではなくて、
"重い"話になっていった。
はじめは離島で孤軍奮闘する爽やかな医療漫画だったのに。
話が一段落すると、きちんとハッピーエンドを見せてくれるのだけど、
次第次第に、単純なハッピーエンドではなくなってきて、
話が一段落してもスカッとはさせてくれなくなる。
通奏低音のように作中には拭いがたい重圧が漂い、次第に濃くなる。
やがてその重圧の正体が鮮明になってきて、
作者は、生を悲劇としてとらえて描いているのだと思った。
それは、ただ悲しいとか絶望的だとか、暗い話だとか、
そういう意味で「悲劇」と言っているのではなくて、
同じ事象の異なる見え方として喜劇性と悲劇性とがあって、
その悲劇性の方を描いているということ。
「いま、ここ」の奇跡のような巡り合わせと、
今この瞬間のかけがえのなさとその脆さ。
今の自分も今のこの世界も絶対じゃない。
時間が容赦なくすべてを相対していくことの無慈悲と救い。
そのセンチメンタルのせいで、
本郷からの帰りの電車の中で、
久々の晴れ間に差し込む光と、
それを照り返す街の彩度がやけに鮮やかにみえた。
「いま、ここ」の生の輪郭を否応なく魅せてくれる
悲劇の効用を、
ひさしぶりに思い出した。