The Destination is unknown. The Journey is the Reward.

Author: 野澤真一 / NOZAWA Shinichi , version 2.0190217 / Podcast: 七味とーがラジオ / twitter: @melonsode

アートの最近のブログ記事

あれは組物というらしい

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日曜日は選挙があったけど、
期日前投票で事前にすませてあって、
その日は千葉県の佐倉まで行ってきた。

国立歴史民族博物館というところで、
日本建築は特異なのか」という展示をやっていたので、
それを見てきた。

お寺とか神社とか古い建築を見るとき、
すっごく注意して見る部分があって、
それがこれである。

CIMG3628.JPG

これは京都御所のどこかで撮ったやつ。
この、柱と屋根が接するところにある太くて複雑なあれ。

名前はしらないのだけど、これがすきなのである。
奈良の五重塔を見たときに、
ここが異様にかっこよかった。
やたら入り組んでいて複雑なのに豪気なかっこよさがある。

それ以来、寺とかそういうものを見るときはここに注目するようになった。
注意してみるようになると、これは奈良とか平安とか古い時代の建築に多く、
江戸の頃の建築では滅多に見ない。

たぶん、古い時代にはその建築を成立させるためにそういう構造が必要だったのだけど、
時代を下るにつれて技術が向上したりあたらしい構造が生み出されて、
そういう構造は必要なくなった結果、
それは姿を消していったのだと思われる。

そんなわけで、昔からそれが気になっていたところに
「日本建築は特異なのか」展のポスターが目にとまった。

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まさに、あれである。
この展示会に行けばあれの正体がわかるんじゃないか!という期待を胸に、
浅草線と京成線を乗り継いで行ってきた。

浅草線と京成線は繋がっていて、
乗り継ぎはあるけれど乗り換えはないので、
何気に楽に行けた。

この展示は、日本と韓国と中国の古い建築を比べることで
日本建築は本当に特異なのか?という問いを考える展示である。
展示の詳細はめんどくさいので書かないが、
いろいろ勉強になりました。

で、肝心のあれだが、あれの正体がわかった。
なんと、あれの構造を発泡スチロールの模型で実際に作ったり崩したりできる
展示もあった!
組物好きにとっては垂涎ものの展示であった。

それで、あれの名前は「組物(くみもの, bracket system)」という名前だということがわかった。
そのまんまだ。
組物は主に「斗(ます, bearing block)」と「肘木(ひじき, a bracket arm)」からできていて、
それがいくつも組み合わさってあのような構造になっているらしい。

要は肘木を置いて、その両端に斗を置いて、
その斗の上にさらに肘木を重ねて、
柱が屋根を他の構造材も含めて支えられるようになっている。

その肘木と斗とその他の構造材との組み合わせ方は一通りではなく、
和様とか、大仏様とか禅宗様などがあるらしく、
建築ひとつひとつで少しずつ違うらしい。
また、中国や韓国など国による違いもあるらしい。

この展示のパンフレットを買ったら、
ご丁寧にCGで組物の構造を解説してくれている。

EPSON129.JPG

というわけで組物萌えな1日でした。

絶対涅槃ミュージック

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芸能山城組が毎年行うケチャのお祭りがあるという情報を受けて、
ゼミがひけたあとに行ってきた。

芸能山城組 - イベント情報

何年か前からケチャ祭りをやっているのは知っていたのだけど、
なんとなーく時間がなくて行けなかった。

でも今回はそれにあつらえたように時間が空いていて見ることができた。

夕方の6時に到着して、その時はブルガリアの民族合唱と
グルジアの民族合唱をやっていて、遠巻きに見ていた。

それから、なぜかバナナの叩き売りがはじまって、
そこに全身タイツ(黄色)に唐草模様のマント姿のバナナマンが登場して
最初100万円だったバナナが最後300円で売られていた。
バナナマンの奮闘の甲斐あって、最後の方には
それなりに客席がもりあがったけれど、
基本的には会場のひとびとはバナナマンのかけ声を
しーんと眺めているだけだった。
かわいそうになって何度も「買った!」といいそうになったけど、
雰囲気に飲まれて言えず、結局オレも同罪であった。

そのあとに、いよいよガムランの演奏。
ハイパーソニックエフェクトを存分に感じるために、
地面に敷かれた筵の最前列に腰掛けて、音ができるだけ肌にあたるように
そでまくりをして聞いた。

ハイパーソニックエフェクトというのは
日本語にすると超音波効果なわけだけど
人間の可聴領域を外れた高周波成分である超音波を聴く(浴びる)ことで、
"脳が活性化する"というものである。

人間の可聴域はせいぜい20kHzぐらいでそれ以上の音を聞けといわれても、
普通は聞こえない。
だからCDに録音されている音楽の周波数成分も上限は20kHzであるし、
ギターやピアノなど、日常的に目にすることができるような楽器を
鳴らしてもその程度の音域までしかでない。

ところが、ガムランは20kHzどころか100kHzを越える音域まで
音を奏でることができる。
と、まあうんちくはココでもみてください。

ともかくその、ハイパーソニックエフェクトを一度体験してみたかったのだ。

以前聴いた話では
ハイパーソニックエフェクトは音を数分は聞き続けないと
その実感が湧かないということだったけど、
演奏がはじまって2秒ぐらいで即座に自分の体に異変が起こっているのがわかった。
確かに高周波部分がリッチなのもよくわかった。
普段は使わない、10kHzとか20kHzに対応する耳の奥の部分が
久々に出番がきたとばかりに喜んでいた。

そしてさらに2秒ぐらいあとに、
ハイパーソニックエフェクトがどうとかがどうでもよくなった。

音楽が、ひたすらに心地よくて、
「可聴域以上の高周波を本当に感じるのか?」
「ガムランてどんな音でバリの民族音楽はどんなか?」
そういうことを観察しようとする冷静な視点はあっさりと放棄した。

うそみたいなんだ、本当に。
これはきっと天国、いや涅槃で鳴り響いている音楽に違いないと思った。
ガムランの音楽には明確なパターンがない。
パターンは絶えず変化して、
時間が流れているのか止まっているのかわからなくなる。
それでも力強いうねりが心をさらい、
心の中には動きが生まれ続ける。

あんな鍋と蓋をくっつけたみたいな楽器や
どことなく木琴に似た形の楽器や、
おもちゃの猿がもっているような小さなシンバルみたいのや、
日本の鼓を大きくしたような太鼓を20人ぐらいで演奏するのだけど、
精巧さとはほど遠いような原始的な印象を受ける楽器達。
それが一斉に複雑に打ち鳴らされて、
それでいて絶妙に旋律やリズムが絡み合った音を鳴らしているというのは
驚異だった。

確かに手が早く動いているのは分かる。
だけど、その手の動きでどうしてそんな複雑で豊かな音が出るの?
不思議で仕方ない野田kど、それでも確かに音は鳴っている。
そして音が非常な"細部"まで鳴っている。
それは厳密に制御されているのではなく、
楽器や空間に委ねられて鳴る。

演奏者たちの手の動きも複雑だが調和していた。
昔、手話で話しているのをみて、
まるで蝶が舞っているみたいだな、と思ったことがある。
手話の手の動きはひらひらと優美で、複雑で、繊細ではっきりしていた。
演奏者達の手の動きも同じようだった。
確実に規則的な軌跡を描くのだけど、
つぎにどんな軌跡を描くかはまったく予測不可能。

そして踊り。
女性二人が、舞う。
息をのんだ。
ああ、美しいってこういう意味だったんだと、
美しいという言葉の意味をまるではじめて発見したかのようだった。

生々しく優美で途方もなく高貴な舞だった。

体の表面積からしたらごく僅かなはずの目玉の動きが、
まるでその人の体全体の動きのように感じられたり、
肘や肩の角度は変えず両の手首だけが動く動きが
まるでカニッツァの三角形のようにないはずの何か
大きな力や姿がそこに現れているかのように見えた。

動きが速いわけでも強靱な筋力を必要とするわけでもないのに、
信じられないほど動きがダイナミックで、
ひとつひとつの所作・姿勢からは
意味がそのまま具現化しているような象徴性が感じられた。

目が離せなかった。
音楽と踊りで発狂するのと正気を保つのが紙一重の状態になった。
たぶん、一種の意識変性状態だと思う。

見終わった後は、泣きはらした後みたいに、
頭を締め付けるような微かな頭痛を感じてぼーっとした。
それこそ涙を流した後にそっくりな感覚。

ガムラン演奏が一時間続いたあとは、
しばらく準備に時間がかかった後、ケチャだった。
この頃には、住友ビルの前の広場は人でぎっしりと埋め尽くされていた。

ケチャは中学のときに音楽の授業でやったことがある。
僕の行ってた中学は地元の何の変哲もない普通の公立校だったのだけど、
何故かそのときの音楽の先生が、
芸能山城組でAKIRAの制作にも関わった松本智津子先生で
中一の時の担任の先生でもあった。
この先生が和田あき子バリに豪気な人で、
音楽の授業でケチャをやるぜと言い出した。

当時の僕らはケチャのことなんかまるきりわかんないし、
それでもケチャをやること自体はそれほど難しいことではないので、
わけのわからないままケチャをやっていた。
わけがわからなかったけれど、
その時の高揚感だけは覚えている。
「チャ」という音が漫画の擬音のように具現化して
音楽室全体にぎっしり埋まって瞬間ごとにその配置を変えていくような
「チャ」の洪水に包まれて、一種の恍惚状態を味わったのだった。

だから自分の中のケチャのイメージはそんな感じで、
大人数が口々に「チャ」を連発して「チャ」の圧倒的な洪水に
包まれる体験を予想していたけれど、
それはケチャの本来の体験ではないということが今回よくわかった。

男達が幾重にも円上に並んで、
その中心に向かって座る。
円の中心部の空いたスペースが舞台である。
円陣の男達は舞台そのものであり、
波打ったり倒れたり盛り上がったりする舞台装置でもあり、
BGMを奏でる音響装置でもあり、
演舞に華を添える脇役でもある。

そしてその"人間ステージ"の中心で
神話のような物語が演じられる。

先行していたケチャのイメージの騒がしさとは裏腹に、
繊細で神々しさに富んだ物語だった。

民族民謡とか民族舞踊と呼ばれるものに
こんなにも感銘を受けたのははじめてだと思う。

去年、YouTubeを検索してケチャの模様を撮影した動画を見たときと
うけた印象はまったく異なる。
写真が動画の1コマであるように、
動画もあの体験のほんの1コマに過ぎないのだということがよくわかった。
そもそもがYouTubeの動画では音質も画質も不十分すぎる。
CDの音質でさえ、ガムランの音は収録しきれないのだから当然だが。

もしこの生のケチャを見に行く気がないななら、
YouTubeなどでケチャやガムラン音楽の片鱗をみようとしないほうがいい。
まったく別物だから。
そういうので見ただけでは、
ケチャはただの呪術的な儀式にしか見えないだろうし、
ガムランだって騒がしい音楽にしか聞こえないだろう。

なんとこのケチャ祭りは明日と明後日もやっているので、
ちょっと行ってみたいけど、でもちょっとめんどくさいという人は
がんばって閾値を超えてみることをお奨めする。

* * *

去年の関連記事:
Memory of CAK - フェムトセカンド

たゆたう金魚の意志

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チェゴヤ。

チェゴヤの一角を茂木研が占拠。
あれ?なぜか就職して出て行ったはずの後輩がいる。

・・・そうか、ゴールデンウィークか。
ーーーーーーーー。

茂木さんが隣に座ったので少し研究の話をする。
「俺はさぁ、海にいこうとか何かをしようとか、
そういう自発性をやってほしいんだよ。
今言ったような確率分布の話も大事だけどさぁ・・・」
というようなことを言われた。

自分がいま考えているのは
ポリア・エッゲンベルガー分布という分布。
確率変数を10個にしてシミュレーションすると、
多峰性の分布ができたりできなかったりして面白い。
ある種の自己組織化が起こる動的な分布と捉えることができる(と思う)。

茂木さんはやはり多動症を地でいく人なので、
よっぽどこちらが面白い応答をバンバンしないと、
一定の話題を保ち続けることができない。
そうするだけの研究の話題がないのがいけないのだけれど、
やはりこういう時ぐらいしか茂木さんと話す時間がないので、
大した話もできず終わってしまったのが
(いつものことながら)惜しい。

今日のゼミには芸大のノブクニさんがいらしてトークしてくださった。
「いらしてトーク」というか、これから茂木研の一員になるのかしら?

その後、論文紹介2件。
催眠術をかけて記憶を抑圧したときの脳活動の話と、
漢字仮名交じり分、ひらがな分、それぞれのスペースありなし、という
4パターンの文章を読むときの速度を比較した論文。

それらはつつがなく終了し、
ゼミのあとのまったりとした雰囲気に後ろ髪をひかれながらも、
さっさとCSLを後にした。

向かった先は、銀座のギャラリー小柳

内藤 礼 Rei NAITO

color beginning
March 24 - May 16, 2009

内藤礼さんの展覧会である。

20点ほどの作品数で、内藤さんにはめずらしく、
普通の意味でのドローイングが大半だった。

5分ぐらいでひとしきり見て、
やはり戻ってきてしまうのは、
先日の横浜トリエンナーレでもみた作品であった。

このサイトに写真が載っている。
無題(母型) 内藤礼 横浜トリエンナーレ2008|ON THE STREET CORNER インディーズ取材日記

電気コンロが床にふたつ並んでいて、
その電熱線は赤々としている。
それだけか、と一瞬思うのだけど、
そうではなくて、その上に一本の糸が垂れている。

その糸が、電熱線の作る上昇気流によって、
狂ったように舞い、漂い、落ちてゆき、また舞い上がる。
糸は絶え間なく変化し続け、上昇しては下降する。

横浜トリエンナーレの時も、今回も、その糸の動きに魅入った。
横トリの時は茶室のような小さな小屋の中にそれがおいてあり、
遠くから眺めるしかなかった。
いまは、すぐ足下で熱せられた空気が上昇し糸を震わせ、
自分の頬をなでてゆくのを感じられる。

ストレンジアトラクタの振る舞い、そのものである。
(そもそもローレンツアトラクタは乱流のモデルか)

しゃがんでじーっと見ていたけれど、飽きなかった。
絶え間なく落下し続けるのに、
限りなく跳ね上がり続ける。
落下と跳躍のせめぎ合いが、情動系に訴えかける。

もうひとつインスタレーションの作品があって、
それはみたことがなかった。

洗面台の上にビーカーのようなガラス製の円筒状の容器があって、
そこに上の蛇口から絶え間なく水が流れてくる作品。
少量の水があふれてゆき、入ってきた水がビーカの水面を乱す様が
なんとも言えず静謐かつダイナミックだった。
ぱっと見ただけでは気付かないけれど、
ビーカーの中には短冊状の薄い布が入っていて、
水の震えによって、微かにだが動き続けている。
それが何かを訴えかける。

受付には作品の名前の一覧表が置いてあって、
ほとんどが「無題」だった。
作品の横には値段が書いてあって、40万から150万ぐらいだった。
値段が書かれているのをみて、息がつまってしまった。
値段の高さに驚いたとか、そういうことではなくて、
内藤さんの作品に値段をつける、という行為にびっくりしてしまった。
芸術作品に値段をつけるなんてケシカランとかそういうのではなくて、
ただただ内藤礼の作品から受けるものと、
値段をつけるという行為のギャップにびっくりしただけ。
冷や水を浴びせられるかのような。

2005年にみた「地上はどんなところだったか」展みたときの衝撃は、
今でも覚えている。
アート、特に現代アートと呼ばれるものに懐疑的だった自分にとって、
そんなつまらない思いこみを吹き飛ばすには十分すぎる体験を、
内藤さんの作品は提供してくれた。

いつかもっとお金ができたら、あのとき見た、
「ナーメンロス/リヒト」を手に入れたいと願う。

虚空を漂う糸を見ていたら、
昔飼っていた金魚のことを思い出した。
アホのように水槽をたゆたう金魚も、やはり見ていて飽きなかった。

あの金魚は自発的にあのように泳いでいたのだろうか?
自由意志は?


***
http://melonsode.fem.jp/fs/log/2007/09/20070926.html
http://melonsode.fem.jp/ms/cgi-bin/0504.html
http://melonsode.fem.jp/fs/log/2007/11/20071126.html

海岸に石を一つ付け加える

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大槻あかね展 「広告批評」に描いたもの

に行ってきた。

http://akanet.diary1.nazca.co.jp/2009/diary_20090425_all.html

大槻あかね 展 「広告批評」に描いたもの

雑誌「広告批評」の休刊を機に、
1997年の表紙、
1996年からの「広告学校ニュウス」と、
「広告批評」に描いたものを展示します

この12年のあいだ描いてきたものたちの
こんなに奔放におよぎまわる姿から、
「広告批評」という川の
広さ、深さ、水の豊かさが
感じられるように思います

ありがとうございました
                
2009年4月25日(土)ー5月3日(日)13:00-19:00

gallary HAKUSEN
〒166-0044 東京都杉並区阿佐ケ谷南1-36-14 ハウス白鳥1FB
http://hakusen.jp 
info@hakusen.jp

大槻さんは芸大の授業のあとの飲み会で、
いつもぽよーんとしているイメージが強すぎる。

ほぼ日刊イトイ新聞の「」で、
作品はみたことあるけど、
それ以外は全然見たことがなかった。

今回は広告批評の余白を埋めていた(?)作品たち。

大槻さんの作品からは、海岸に石を一つ付け加えるような感じがした。
立ち止まって、手にとって見てみないと、
その石の醸す"旨み"はわからない。

ひとしきり、大槻さんにいろいろと作品のことを聞かせてもらって
楽しかった。

このほかにも大槻さんは絵本の仕事や装丁の仕事などもしている。
知らなかった。

絵くんとことばくん (たくさんのふしぎ傑作集) (大型本)

天野 祐吉 (著)
大槻 あかね (イラスト)

この絵本は読んでみたい。

あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント (講談社文庫) (文庫)

鴻上 尚史 (著)

これの装丁とか。


* * *

今宵の月は、チェシャ猫の口。

阿佐ヶ谷から渋谷に戻って、交差点で信号待ちをしているときに、
それを見上げた。

Belgian Beer

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慌ただしく数日が過ぎていった。

木曜はバイトで、その前の時間と金曜日は後輩と一緒にプログラム。
金曜の夜に実家に行って、ハハ用の新しいPCの立ち上げ作業をして、
土曜日の昼はボーイスカウトの会議。
その日の夕方からゼミが渋谷であって、
ゼミの後、ニュー信州というたまたま見つけた居酒屋でだいぶ飲んだ。
http://www.netlaputa.ne.jp/~help/119/119.html

今日は銀座にお買い物に行った後に、
六本木の国立新美術館とサントリー美術館をはしごして、
ピカソを見た。
http://www.nact.jp/exhibition_special/2008/PICASSO/index.html
http://www.asahi.com/picasso/

* * *

ハハにウェブブラウザのホーム画面は何がいいか?と聞いたら
「グーグル!」という答えが返ってきたので驚いた。
てっきりヤフーの方がいいと言うと思っていた。

なんでグーグルの方がいいの?、と聞いたらさらに驚いた。
「グーグルの検索結果の方がおもしろいのがいっぱいでてくるから」
だって。

マイマザーの口からこんな言葉を聞くことができるなんて!
右クリックとダブルクリックが
うまくできなかったこともあったというのに。
グーグルとヤフーの違いがわかるなんて、
なかなかのものですよ、マイマザー。

これまでハハにあてがったPCはどうせあまり使わないからと、
誰かのお下がりとか中古のPCだとか、
できるだけお金をかけずとりあえず動くやつだったのだけど、
やはりそれだと寿命が短くて結局別なのを買わないといけなくなるので、
(安物買いの銭失い)
今回はもし自分が使うことになっても文句を言わない程度のスペックにした。
それで正解だったであろう。

* * *

土曜のゼミは普段のゼミとは趣向を変えて、
今考えていることをA4一枚の紙にまとめて持ち時間10分で話す、
というもの。
去年は新年度早々に、神田の竹むらでやった。
今回は渋谷の喫茶店Cafe Miyamaの貸会議室。
http://www.ginza-renoir.co.jp/miyama/

このゼミの開催告知が二日前だったのと、土曜日なのとで
出席率はすこし低かったのは残念だったけれど、
密度の濃い時間だった。

腰を痛めていてしかも風邪をひいて
這々の体の関根さんが、やってくれた。
どんな話をするのかと思えば、
命題には分析的命題と総合的命題という分け方と、
アプリオリな命題とポステリオリな命題という分け方があって、
ほぼ同じような分け方なんだけど、
僕はいま総合的かつアプリオリな問題があるかということに関心があって・・・
となにやらすごいことをいいだす。

イギリス経験主義の伝統はクオリアというものを
消し去ってしまったのですけれども、
その経験主義の立場からすると、
分析/総合の境界とアプリオリ/ポステリオリの境界は一致しているわけです。
一方でカントに代表されるドイツ観念論の伝統からすると、
その境界は一致してはいないわけです。
それで境界は一致するのかしないのかというのが、
境界の問題として知られているわけですけども・・・

という話を関根さんがした。
なんだか連続体仮説みたいだなと思ったが、
その境界が一致するのかどうかということは、
皆目わからなかった。

それでもそんなとてつもないことを考えていたのか、と
度肝を抜かれた。
さすがは現代思想に原稿を執筆した御仁である。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2008/08/post_ca34.html

その後の飲み会の席でもグレンジャーコーザリティーの方向性と
オンゾウの消費と所得の関係がどうの、
という話に始まって、
リベットの実験にしたって、あれはなんだよ、
大学入試前後の高校生の学力の推移と、
大学入試試験ていうイベントの発生のグラフとしてだって見えるじゃないかと、
ヘルニアで腰が痛くてへろへろそうなのにも関わらず、
威勢良く自説を披露していた。

最近弱気になっているようだが、
この人はきっと大丈夫だろうと思った。
日本の大事な論客の一人になるに違いない。

* * *

ピカソ展は昔から気になっていたピカソの青の時代の作品を目当てに。
国立新美術館とサントリー美術館の二つの美術館にまたがって
展示がされていて、目当ての作品はサントリー美術館のほうにあった。

ピカソの青の時代を代表する作品の一つである「肖像画」。

いつだったか、昔、この絵をテレビか何かで初めて見てから
ずっと魅せられていた。

鬱屈とした雰囲気がたちこめる。
表情も立ち姿も、目つきも姿勢も、色も。
それはたぶん共感と呼ぶのがいいのだと思う。

これはオレだと思った。
帰りにこの絵の絵はがきを買ってきて、
絵の上の余白に「↓オレ」と書き込んで飾ることにした。

数年前の東京都美術館のピカソ展でピカソのことは知っている気になっていたけど、
今回の展示でピカソの最晩年の作品をみて、
まだ自分の知らないピカソがあった!という発見があった。
知っているというのは浅い意味で、
単にある画風の絵を見たことがあるというだけのこと。

最晩年の作品はキュビズムの進化形にも見えるが、
でも本質的なところで違う画風になっている気がした。
キュビズムやピカソの作品の多くはごつごつとした印象を受けるけれど、
最晩年の作品は曲線が"垂れて"いた。
よりポップな方向にいっていて、
自由闊達、融通無碍な印象を受けた。
表現として"枯れた"感じ。
枯れたというのは詫び寂びの意味で。

サントリー美術館の最後の展示作品は
最晩年の自画像だった。
(いや、タイトルは若い画家というものだったが)
それが本当に、いい絵だと思った。
ポップであり、枯れていて、鮮烈だった。

この絵の中の人は自分ではない。
自分はこうはなれていない。と思った。

本当に乱暴で自己流の解釈だけど、
ピカソは「青の時代」で答案用紙を完璧に埋めてしまったのだと思う。
その頃に描いた絵は完成している。

だから、それ以降のピカソは答案用紙を提出するまでの余った時間で
徹底的に遊んでいたのだと思う。
遊びといってもそれはお気楽なものではなくて、
全身全霊を賭けていたと思う。

キュビズムはやはり過渡的な画風だと思う。
ピカソは十分長生きをしたとは思うが、
もう少し先の絵を見てみたかったな、と思った。

* * *

美術館からの帰り道で、
一服のつもりで寄ったお店で
ベルギービールを飲んだ。

ら、ホワイトビールがびっくりするほどおいしかった。

またいきたい。

Kozu island

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海で遊んで山に登る。
そんな神津島なのでありました。

ふたつ、神社にも行った。
阿波命(あわのみこと)神社と物忌奈命(ものいみみこと)神社。
神津島は神の字がつく島。
沖縄の御獄(うたき)に似た神聖さが感じられた。

積み上げられた石。
茂る松の木。
まだ大人の腰の高さにも達していない松の幼木。
空と山と海の気配と。

そこにあるものは、神社という文脈とは無関係のものでも、
なぜか目を見張る美を備えているものがあった。
現代アートを鑑賞しているような気分になった。
密やかな佇まいなのに、
それとはアンバランスな強さが内側からはじけそうな
内藤礼さんの作品のようだと思った。

今回は、シュノーケリングのフルセットを持ってきた。
重くてかさばるけれど、持ってきて正解だった。
海の中は別世界だ。
赤崎海岸でキビナゴみたいな魚が、
空間をびっしりと埋め尽くしてカーテンのような光景だった。
長浜海岸はお魚の楽園のような場所で、
次から次にいろんな魚がでてきて、
銛(もり)で漁をすれば自給自足できそうだった。
エイやフグもいた。
泳いで岸壁に移動して、上陸。
ロッククライミングもどきをして、
帰りは陸を歩いた。
なんちゃってトライアスロン。
前浜はクラゲに刺されて早々に退散。

二日目の晩に入ったお寿司屋で「たかべ」というお魚の
お寿司を食べた。
今まで食べたことがないような舌触りと味で、
驚異的なうまさだった。
舌触りは中トロに似ていて、
味と香りは品のいい白身魚のそれに似ていた。

帰りの高速船は空席がとれなかったので、
大島で別の船に乗り換えて熱海に帰る。
高速船ではすっかり、合宿はもう終わりモードに
入っていたけれど、
不意打ちのように伊豆半島の夕焼けが現れた。
それはすばらしい光景だった。

熱海で合宿最後の晩餐。
みんな屈託なく食べて飲み笑う。
二泊三日で、生まれ変わったのだ。

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Still life

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金曜日:
上野でピザ。

土曜日:
ベラスケス見たさに「静物画の秘密展」を国立新美術館に見に行く。
http://wien2008.jp/
夜は今話題の「Sex and the City」の3話〜5話ぐらいまでみた。

日曜日:
駒場に進化学会に行った。
雨だった。

月曜日:
CSLに行ったけれど、誰もいなかった。
誰とも会わなかった一日。

新潟の万代島美術館とか
http://www.lalanet.gr.jp/banbi/
バッファロー66を見た話とか、
書いときたいことがたまってます。

あ、「男の子のための軍隊学習のススメ」を読了。

静物画って「Still life」って言うんだ。

ALICE: Rahmens

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いつだったか、大学のキャンパスに
「ラーメン構造を用いたなんとかなんとかの設計」と題した
博士論文かなんかの案内の紙が張られていたことがあった。
「ラーメン」という単語が出てきたので笑ってしまったが
いったいなんのことだかわからなかった。
あれは「ラーメン」というのは
小麦をこねて細く伸ばしたものを暖かい汁につけて食べる
あの中国発祥の料理ではなくて、
ドイツ語の「Rahmen」のことだったということに気付いた
今日この頃。
ドイツ語で「Rahmen」というのは「額縁」のこと。
純ラーメン構造、みたいに、
建築の世界ではよく使われる言葉らしい。
筋交い(すじかい)を使わずに直角な棒の接合によって
壁(平面)を作るような構造をラーメン構造というらしい。

***

さて、こちらは麺類でも建築用語でもない「ラーメンズ」。
お笑い、というかアーティストといった方がよいかも。

http://www.rahmens.net/

今年の2月頃に「ラーメンズ」にはまって、
当時は一日3時間はみなければ気が済まないほど
中毒になったが、
ここのところは落ち着いていた。
が、最近またムショーにラーメンズがみたくなって、
しかもこれまでに見たことがないやつが見たい!という
衝動に駆られてついにラーメンズのDVDを買ってしまった。


今回買ったのは「ALICE」。
2005年の第15回講演。


「モーフィング」
これはDVDではじめてみた。
モーフィングのようにそれぞれが独立して関係のない場面が
切り替わる。
その形が連続的に変わっていく感じを、
演劇でやろうとする発想がすごいし、
実際、成功している。


「後藤を待ちながら」
DVDではじめてみた。
長谷川さんが哀れで、岡田が怖い。


「風と桶に関するいくつかの考察」
うまい。
「風が吹くと桶屋が儲かる」というのは
よくわからない理屈で原因と結果が結びついているのを
表現した諺だけど、
風が桶屋になる「理屈」をいくつも披露している。


「バニー部」
硬派な応援団的な雰囲気のバニー部。
片桐仁がひたすらすわっているだけで、まったく動かない。
小林賢太郎がひたすら一人相撲をとる。
ラーメンズが発明したコントの新しい形式。

これもすっごい笑った。
強面硬派な人格と、女っぽい甘えた声を出す人格と、
猫の声真似とか小道具を使った一発芸とか、
小林賢太郎の芸の多様さが伺える。

冒頭のレディオ体操第一を
よく考えたなーと感心するし、
真似しようとしてもあの動きはなかなかできない。


「甲殻類のワルツ」
これもDVDではじめてみた。
フォッフォッフォ。


「イモムシ」
これは小林賢太郎氏がイモムシの人形を操って、
片桐仁氏と対話するというもの。
イモムシと片桐仁はフィギュアスケートのペア同士、
というような設定。
ただし、実際にはフィギュアスケートではなくて、
フィギュアスケート的な何か。

小林賢太郎が90年代のトレンディドラマのヒロイン的な
しゃべり方をするんだけど、
それを喋っているのはイモムシっていうシュールさ。

「ブルーバンブー」でもっとも受けた。

「不思議の国のニポン」
これはほんと傑作。
片言の日本語で日本の都道府県を説明していく。

「北海道!」
「住民の半分がー、くま!」
「もう半分が、かに!」
「公式キャチフレーズ」
「試される、大地(田中邦衛ぽく)」

栃木→群馬→埼玉、の流れとか秀逸だなーと思う。
全部、猿、馬、サイと動物つながりで来ている。
単品でもそれぞれのネタは面白いけど、
やはりそういうつながりがあるから、
非線形な作用が生まれて爆発的な面白さになる。
熊本→長崎の「ぽん」繋がりとか。
秋田のナマハゲの話が岡山の桃太郎の話でつながるところなんか、
「くぅーーーーーー」と
憎らしいほどあっぱれな伏線の張り方。

最初に見たときはどこを見ても笑えて、
呼吸が苦しくて笑い死ぬかと思うほど笑った。
是非、この「不思議の国のニポン」は見て欲しい。

公演のタイトルがALICEで、
「不思議の国の」というタイトルをつけるということは、
この作品に相当の自信があると言うことだろう。

小林賢太郎氏の脚本の発想力もさることながら、
その話芸の巧みさもうならせられる。
なぜあそこまで、外国語っぽい発音とか、
DJが皿を回す「ドキュドキュ」という音とか、
全然人格の違う声とか、出せるのか。

***
ほとんどをYouTubeで試聴可能。

「モーフィング」

「後藤を待ちながら」
ない。

「風と桶に関するいくつかの考察」


「バニー部」

「甲殻類のワルツ」


「イモムシ」
ない。


「不思議の国のニポン」

Turner prize review @ MAM

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作成:2008-07-01 01:56:04

日曜日、雨の中ターナー賞の回顧展に行った。
森美術館。

「英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展」
http://www.mori.art.museum/contents/history/index.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/ターナー賞
http://en.wikipedia.org/wiki/Turner_Prize

***

デミアン・ハースト(Damien Hirst)の「母と子、分断されて(Mother and Child, Divided )」1993。
http://www.tate.org.uk/britain/turnerprize/history/hirst.htm

写真では何度か見ていたけれど、
実物は圧倒的な説得力があった。

タイトルは冗談も入っているのだろうか。

牛の母と子が分断されている。縦に。

母と子が離ればなれになるという意味ではなくて、
物理的にそれぞれの体が分割されている。
生き物の体を真っ二つにして、
その切断面が剥き出しにガラス越しに見える。
生物の内側と外側。

それはとてもグロテスクな光景のはずなのに、
目をそむけずにいられる。
そこを見てみたいという好奇心が働くし、
不思議とグロテスクさは鼻につかなかった。

白い木枠に透明なガラスを張って作ったきれいな箱があって、
その中が透き通った水色の液体で満たされている。
牛はその中に置かれている。
半分ずつ。
水色の透明さと枠の白さがなんとも静謐な感触を与えていて、
グロテスクさを消臭している。

圧倒的な説得力、と書いたけれど、
何を説得されたのかはよくわからない。
でも、作品を見た瞬間に、
「もう黙ってみるしかないな」と
思わせられたのは確かで。

***


ヴォルフガング・ティルマンス( Wolfgang Tilmans )の
作品も展示されていて、
やはり、ティルマンスのセンスは
とても自分好みだということを再確認した。

この人の色のセンスはずばぬけている思う。
ヴィヴィッドな色彩感覚は蜷川実花の写真に少し似ているかもしれない。
でもけばけばしさはなくて、洗練されている。

被写体の選び方にも独特なものがある。
被写体は、日常的なものもあるし、
性的にタブーなものを撮影したドぎついものもあるし、
I don't want to get over you(君を忘れたくない)のような
叙情的なものもある。

ティルマンスは
ティルマンスの感性にひっかかったものを撮っているだけで、
きっと悪気はないのだろうと思わせる。

http://www.hammer.ucla.edu/exhibitions/104/work_602.htm

ティルマンスにおいてもうひとつ独特なことは、
彼が写真一点一点を完結した作品として考えているのではなく、
複数の写真が、あるサイズ・ある相対的位置関係で配置されたもの全体を
ひとつの作品として考えているという点だ。
ティルマンスに聞いたわけではないけれど、
たぶんそういうことを考えていると思う。

彼は、入念に写真のサイズや写真の位置、
写真と写真の位置関係を考えている。
最初の写真をみてから最後の写真を見るまでの体験を
ひとつの作品としている。


***

アニッシュ・カプーア( Anish Kapoor )の作品もあった。

金沢21世紀美術館でカプーアの作品を見たときは度肝を抜かれたものだった。
http://www.scaithebathhouse.com/ja/artists/projects/kapoor01/

畏怖を抱かせるような絶対的な無があったからだ。
(厚さ3ナノメートルでディラックの海という虚数空間を内包するレリエルみたいだと思った(笑))

それと似た作品が展示されていた。
あったのは、Void No.3だったかな。

金沢の「世界の起源」よりはスケールの小さな作品で
'穴'との距離が近いとことでみることができた。
思わず作品の'裏側'をみてしまう。
そこだけ3次元的連続性が断絶しているかのような錯覚が起こり、
得体の知れない気持ちで心がざわつく。
よく見ようとするけどよく見えない。

真っ黒で太い線維がごわごわしている布が
深い中華鍋みたいな形をしていて、
それが中に吊ってある。

インスタント・ブラックホール。

***

その他、クリス・オフィリ(Chris Ofili)の
「ノーウーマン ノークライ(No woman, No cry)」とか
グライソン・ベリーの女装インスタレーションとか壺とか、
レイチェル・ホワイトリード (Rachel Whiteread)の中身だけの家とか、
Gillian Wearingの逆回し母娘喧嘩とか60分間そのままでいてくださいとか。
良い作品がいっぱいあった。

http://www.ukjapan2008.jp/editors/index-turner.html

今年の秋からターナー賞に注目だ。

BAUHAUS experience, dessau

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芸大のバウハウス・デッサウ展に行った。

http://www.bauhaus-dessau.jp/

バウハウスという組織が、
現代の建築やアートシーンにどのような痕跡を残しているか
知るのに勉強になった。

建築は知の総力戦である。
コンクリートがどのぐらいの強度を保てるか、
設計した建築が実現可能か、
現実に即した構造計算ができなくてはいけない。
その設計で、その素材で建築が完成したとき、
果たして、それは美しい調和を保っているか、
美的なセンスを問われるのも、もちろんである。
また、建築はそこで生活するものである以上、
人にとってどう感じられるか、
使い心地はよいか、ということも考慮に入れる必要があり、
認知科学的なセンスも持ち合わせていなくてはならない。

土木・物理・数学・心理学・美学・哲学。
あらゆることを知っていないければいい建築はできない。

バウハウスという集団は
そのことを真摯に受け止めて、
そのような人材を大真面目に育成しようとしていたのだということが
この展示を通してまざまざと伝わってくる。

現代に生きる建築やデザインの原型を、
思いがけなく発見することになる。

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