慌ただしく数日が過ぎていった。
木曜はバイトで、その前の時間と金曜日は後輩と一緒にプログラム。
金曜の夜に実家に行って、ハハ用の新しいPCの立ち上げ作業をして、
土曜日の昼はボーイスカウトの会議。
その日の夕方からゼミが渋谷であって、
ゼミの後、ニュー信州というたまたま見つけた居酒屋でだいぶ飲んだ。
http://www.netlaputa.ne.jp/~help/119/119.html
今日は銀座にお買い物に行った後に、
六本木の国立新美術館とサントリー美術館をはしごして、
ピカソを見た。
http://www.nact.jp/exhibition_special/2008/PICASSO/index.html
http://www.asahi.com/picasso/
* * *
ハハにウェブブラウザのホーム画面は何がいいか?と聞いたら
「グーグル!」という答えが返ってきたので驚いた。
てっきりヤフーの方がいいと言うと思っていた。
なんでグーグルの方がいいの?、と聞いたらさらに驚いた。
「グーグルの検索結果の方がおもしろいのがいっぱいでてくるから」
だって。
マイマザーの口からこんな言葉を聞くことができるなんて!
右クリックとダブルクリックが
うまくできなかったこともあったというのに。
グーグルとヤフーの違いがわかるなんて、
なかなかのものですよ、マイマザー。
これまでハハにあてがったPCはどうせあまり使わないからと、
誰かのお下がりとか中古のPCだとか、
できるだけお金をかけずとりあえず動くやつだったのだけど、
やはりそれだと寿命が短くて結局別なのを買わないといけなくなるので、
(安物買いの銭失い)
今回はもし自分が使うことになっても文句を言わない程度のスペックにした。
それで正解だったであろう。
* * *
土曜のゼミは普段のゼミとは趣向を変えて、
今考えていることをA4一枚の紙にまとめて持ち時間10分で話す、
というもの。
去年は新年度早々に、神田の竹むらでやった。
今回は渋谷の喫茶店Cafe Miyamaの貸会議室。
http://www.ginza-renoir.co.jp/miyama/
このゼミの開催告知が二日前だったのと、土曜日なのとで
出席率はすこし低かったのは残念だったけれど、
密度の濃い時間だった。
腰を痛めていてしかも風邪をひいて
這々の体の関根さんが、やってくれた。
どんな話をするのかと思えば、
命題には分析的命題と総合的命題という分け方と、
アプリオリな命題とポステリオリな命題という分け方があって、
ほぼ同じような分け方なんだけど、
僕はいま総合的かつアプリオリな問題があるかということに関心があって・・・
となにやらすごいことをいいだす。
イギリス経験主義の伝統はクオリアというものを
消し去ってしまったのですけれども、
その経験主義の立場からすると、
分析/総合の境界とアプリオリ/ポステリオリの境界は一致しているわけです。
一方でカントに代表されるドイツ観念論の伝統からすると、
その境界は一致してはいないわけです。
それで境界は一致するのかしないのかというのが、
境界の問題として知られているわけですけども・・・
という話を関根さんがした。
なんだか連続体仮説みたいだなと思ったが、
その境界が一致するのかどうかということは、
皆目わからなかった。
それでもそんなとてつもないことを考えていたのか、と
度肝を抜かれた。
さすがは現代思想に原稿を執筆した御仁である。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2008/08/post_ca34.html
その後の飲み会の席でもグレンジャーコーザリティーの方向性と
オンゾウの消費と所得の関係がどうの、
という話に始まって、
リベットの実験にしたって、あれはなんだよ、
大学入試前後の高校生の学力の推移と、
大学入試試験ていうイベントの発生のグラフとしてだって見えるじゃないかと、
ヘルニアで腰が痛くてへろへろそうなのにも関わらず、
威勢良く自説を披露していた。
最近弱気になっているようだが、
この人はきっと大丈夫だろうと思った。
日本の大事な論客の一人になるに違いない。
* * *
ピカソ展は昔から気になっていたピカソの青の時代の作品を目当てに。
国立新美術館とサントリー美術館の二つの美術館にまたがって
展示がされていて、目当ての作品はサントリー美術館のほうにあった。
ピカソの青の時代を代表する作品の一つである「肖像画」。
いつだったか、昔、この絵をテレビか何かで初めて見てから
ずっと魅せられていた。
鬱屈とした雰囲気がたちこめる。
表情も立ち姿も、目つきも姿勢も、色も。
それはたぶん共感と呼ぶのがいいのだと思う。
これはオレだと思った。
帰りにこの絵の絵はがきを買ってきて、
絵の上の余白に「↓オレ」と書き込んで飾ることにした。
数年前の東京都美術館のピカソ展でピカソのことは知っている気になっていたけど、
今回の展示でピカソの最晩年の作品をみて、
まだ自分の知らないピカソがあった!という発見があった。
知っているというのは浅い意味で、
単にある画風の絵を見たことがあるというだけのこと。
最晩年の作品はキュビズムの進化形にも見えるが、
でも本質的なところで違う画風になっている気がした。
キュビズムやピカソの作品の多くはごつごつとした印象を受けるけれど、
最晩年の作品は曲線が"垂れて"いた。
よりポップな方向にいっていて、
自由闊達、融通無碍な印象を受けた。
表現として"枯れた"感じ。
枯れたというのは詫び寂びの意味で。
サントリー美術館の最後の展示作品は
最晩年の自画像だった。
(いや、タイトルは若い画家というものだったが)
それが本当に、いい絵だと思った。
ポップであり、枯れていて、鮮烈だった。
この絵の中の人は自分ではない。
自分はこうはなれていない。と思った。
本当に乱暴で自己流の解釈だけど、
ピカソは「青の時代」で答案用紙を完璧に埋めてしまったのだと思う。
その頃に描いた絵は完成している。
だから、それ以降のピカソは答案用紙を提出するまでの余った時間で
徹底的に遊んでいたのだと思う。
遊びといってもそれはお気楽なものではなくて、
全身全霊を賭けていたと思う。
キュビズムはやはり過渡的な画風だと思う。
ピカソは十分長生きをしたとは思うが、
もう少し先の絵を見てみたかったな、と思った。
* * *
美術館からの帰り道で、
一服のつもりで寄ったお店で
ベルギービールを飲んだ。
またいきたい。
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