伊勢神宮、補遺
* * *
境内の"ひのき"が強く印象に残った。
中学の時の国語の先生が
「"あすなろ"の木の"あすなろ"という名前は
”明日はひのきになろう”というところから来てるのよ」
と教えてくれたのをずっと覚えていて、
"ひのき"を見た瞬間にその事が浮かんだ。
その由来ってほんとうかいなと疑いつつ、
もし本当だったらいいかもなと思いつつ
特に調べもせずにこれまで来ていた。
だけど、(たぶん生まれて初めて)"ひのき"をみて、
由来の当否はともかく、
「明日はひのきになろう」という思いは
確かに正しいと思ってしまった。
ネットで軽く調べた感じだと、
”明日はひのきになろう”説は俗説の域を出ない感じだけれども、
それでも「明日、ひのきになりたい」という願い自体は
まったく正しいと思える。
伊勢神宮の”ひのき”を見たら今まで頭の中にあった木のイメージが
まったく壊れてしまった。
木って、あんなに高くなることもできるんだ・・・。
言葉にするとまったくもって素朴な印象なんだけれども、
信仰にも似た畏敬の念が芽生えた。
普通の木の3倍ぐらいの高さの"ひのき"が当たり前のように
そこかしこに生えているのである。
まったく、お伊勢さんには恐れ入谷の鬼子母神である。
* * *
内宮を参拝し外の方へと戻る途中に鶏がいた。
その鶏は神の鶏で神鶏(しんけい)と呼ばれているらしい。
その神鶏が見ほれるような美しさだった。
母方の祖父は養鶏業を営んでいて、
その祖父の家の鶏小屋にはずらりと鶏が並んでいるのを何度もみている。
そのイメージが強くて、鶏というと良く鳴いてうるさくて
泥やら糞やらがついて汚いものというイメージががあったけれど、
その神鶏の姿はその鶏のイメージを壊すほどのものだった。
羽がシルクのように品のある艶やかさとなめらかさがあって、
しっぽの羽の伸び方も見慣れたそれとは違って、
長く優美に垂れ下がっている。
鶏に"神"とつけてしまうのもうなずけた。
そうして、その鶏の姿をみて、
若沖の描いた鶏の絵が浮かんだ。
「そうか、若沖はこの鶏を描いたんだ」
と、得心した。
若沖の描く鶏は、均整が取れていて、羽がみずみずしくやわらかそうで、
色は白と黒と茶色とあと赤ぐらいしか使っていないのに、
文句なく鮮やかである。
あの絵を、オレは「若沖は鶏を美しく描いたんだ」と思って見ていた。
だけど、そうじゃなくて、
「若沖は美しい鶏を描いたんだ」という認識の方が
正しいことがわかった。
そのことに気付いてみると
自分はまったく世界のことをしらないのではないか
そう思えてしまう。
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