既得権という語は、いい響きがしない。
既得権という語は、ある何か有利な権利・便益があって、
その権利はそれまでの歴史的経緯の惰性で手に入れたものであって、
その人がいま現在その権利を持っている必然性が薄い、という
ニュアンスがある。
その必然性の薄さが、人々になぜ自分ではなくあいつが持っているのかという
嫉妬の念を起こさせ、既得権を持つ者に対して、
簡単に悪意を抱かせるのだろう。
その権利や便益をみずから作り出した人に対しては、
既得権者という言い方はしない。
そういう人は素直に尊敬されていると思う。
既得権者と呼ばれるのは、最初の人が作り出した権利・便益を
継承したひとをいうのだろう。
特に、引き継いだその権利・便益をただただ引き継いだだけの
度合いが高いほど、嫌われることになる。
継承したひとは、そこに論理的な必然性がなくても、
その権利・便益を持つことによる義務がを担うことが暗黙のうちに
要請される。
権利には義務がつきものだと、よく言われる。
自分も、一種の既得権者なのだと自覚した。
いきなり会社の社長になるなんて、既得権そのものだと思うし、
父親の遺産を引き継ぐことも既得権なのだと思う。
遺産相続は、この国では認められている。
相続税が100%なら話は別だが、
親が遺した遺産は、本来ならなんの義務も発生することなく
うけとっていい。
だから、遺産だけもらって、会社の方はごめんなさいすることだってできたわけで。
それでも、相続もするが、父親が負っていたdutyも継ぐという
選択肢を選んだ。
あの決断をしたとき、nobless obligeということを強く意識していた。
し、いまもそのことをますます強く思っている。
「高貴なる者」だなんていうにはちゃんちゃらおかしいぐらいの財産しか
持っていないし、受け継いでもいないが、
それでもオレは自分のことを「高貴なる者」と規定することに決めた。
この世界を変えたいと強く思ったし、
そのためにふさわしい力と使命を帯びたかった。
既得権者はそういう強い自覚がなければだめだ。
さもなければ、嫉妬の海に呑み込まれる。
嫉妬する方も、実はみずからが別の立場の既得権である事に気付いていない。
日本人は全員既得権者だ。
アフリカや南米や中国の農村に比べたら、
圧倒的に豊かな生活をしている。
その豊かな生活は、個々人の努力の賜物ではない。
たまたま日本に生まれたという、
本人には、努力も回避のしようもない出来事によって決まってしまっている。
日本の豊かさは、それまでの日本人が代々築いてきたものだが、
それを引き継ぐのに過酷なトレーニングがあるわけではない。
日本人に生まれるという惰性でそれは引き継がれる。
村上春樹が中東のどこかで「卵と壁」というスピーチをしたという
ニュースをみたときに、思ったのは、
この既得権のことだった。
卵と壁のスピーチを全文聞いたり、読んだりしたわけではないのだけれど、
「私は卵の側に立ちたい」というようなことを言っていたのを目にして、
強い苛立ちを感じた。
誰だって、弱いものを阻む壁にはなりたくないだろう。
問題なのは誰もが、知らず知らずのうちに、
既得権者、すなわち壁になってしまうということだ。
日本人に生まれた自分とアフリカで飢えている誰かが逆の立場で生まれても
よかったはずだし、
漫画喫茶で寝泊りするのを余儀なくされる人生になっていたかもしれない。
それにも関わらず、そうではない可能性を生きている。
そのことをもっと真剣に考えるべきではないかと思う。
贖罪意識・原罪意識を持つのとは違うと思う。
もっとクリエイティブな何か。