新居にネットが開通したのである。
嫁はYouTubeでラーメンズを見て、「無線LANバンザイ」と叫んでた。
新居にはテレビが設置されていなくて、
新聞も引っ越しのバタバタで休止したままで、
ネットが不通だと極度の情報飢餓状態になる。
かろうじて、ラジオからのみニュースが入ってくる。
だからぼんやりと、
いまは米軍基地をどうするかが国家的に重要な問題なんだろうな
というふうにしか社会のことを把握していない。
それでも、驚くほど生活や仕事には支障がない。
テレビを見なくなって何年も経つけれど、
テレビを熱心に見ていた頃って一体なんだったんだろう?と
ふと考える。
ああやって情報の洪水を浴びながら
得ていたものってなんなのだろう?
確かに、アイスランドの火山の噴火やチリの大地震のことなど
知っていたほうがいいのだろうけど、
それでも「へー、あっちの方は大変ねぇ」って言って
その情報が自分を通り過ぎていくだけでは意味ないんじゃないだろうか?
その情報に接して、富士山の噴火に備えて避難訓練しようとか
来るべき関東大震災に備えて非常食の備蓄をしようとか、
何かしらのアクションを生まないのなら、
その情報に触れても触れなくてもどっちでもよかったのではないか?
あるいは遠くの県で起こった凶悪な犯罪のことに気を取られるよりも
自分の手の届く範囲の人たちのことを考えるほうがずっと人間的であると思う。
情報の洪水で考える時間を削がれてはいないか?
見ず知らずの遠くの場所の出来事が、
身近な人々への配慮をおろそかにさせていないか?
そんな逆転が起こっていたように思う。
世の中のことを知らなくったって、考える側に回りさえすれば、
世界はずっと広くなるし、おもしろくなる。