バイトのため、午後1時に渋谷におもむいたら、
やたらと高校生の姿が目についた。
もう終業式か?それとも自主的に夏休みを前倒しか?
この頃バイトの作業が行き詰まっていて、
ほとんど何もできずに数時間経ってることが多い。
ある情報をMTからどうやって取り出すのか、
スマートにやろうとするあまり深みにはまっているのかもしれないが、
MTのプログラムに慣れてきたいま、
ステップアップするにはアドホックなコードを書いていてはだめで、
ちゃんとMTの構造に即したコードをかかないとダメだと思っているので、
もっと苦しむしかない。
渋谷のハチ公前やその周辺の歩道は、
歩行者が完全にキャパシティをオーバーしていると思う。
あの場にいるひと達が一斉にその気になって、
無理矢理歩行者天国を始めたら、
完全にあの道路は車が通れなくなるだろう。
実際、最近は歩行者のマナーが悪くなっていて、
歩道者用信号が赤になってもあまり焦ることなく歩いている人が多い。
あまりにも周りに人がいすぎるので、
車は歩行者をよけて発進することもできず、
また、歩行者もすでに赤になっていると気付かなかったりする。
でっかいペデストリアンデッキを作ればいいのに。
それか、車道を完全に地下化。
* * *
石を空に向けて投げたら、放物線を描いて飛んでいく。
その軌跡は微分方程式によって記述できてしまって、
その石にはその軌跡を辿る以外に方法がない。
もし石に意志があって、
「もっとも高いところまで来たらそこで静止しよう」とか、
「一切減速せずに加速し続けよう」という
意志をもったとしても、
その意志が叶うことはない。
さてこれをして、石には自由意志はない、と言えるだろうか?
これを人間に置き換えてみる。
人間が人間投石機にセットされて、
バチコーンと飛ばされたとする。
このとき飛ばされた人間が、
石と同じようなことを飛ばされている間に思ったとしても
やはり石と同じ運命を辿ることになる。
このとき、抱いた意志はもちろん叶わないのだけど、
うわーんと飛ばされる中で人間が抱いた思いは、
果たして自由意志ではないだろうか?
意志が叶うか叶わないかで
自由意志が存在するか否かは決まらない。
自由意志というと、何かをしようと思って、
実際にそれをすることが
自由さなのだと考えるけど、
実は意図したことができなくても、
自由さは損なわれない。
かといって自由意志の全面的肯定にもならないのだが。
自由は石にも飛んでる人にもなくて、あなたが自由なわけですが、あなたが飛んでいたとしても、やはりあなたは自由なんでしょうね。
一般に、自由意志は社会にかかわる概念で、物理的な実体でも、生物学的な現象でもなく、自己と他者に共通してその有無と程度が評価しうる社会的判断と思われるのですが、おそらく、それがあたかも視覚や触覚のような直接的な”感覚”のように明瞭に”感じられる”ということを問題にしておられるのでしょうね。
それは、行為や身体の自己所属感の問題と地続きで、例えば統合失調症において行為の自発性の感覚が失われる場合があることや、ある種のトリックによって、作り物の手を自分の手のように感じさせることができることとも関係していそうですね。