昨日は親子丼を作った。
かつお節でだし汁を作って、
そこにみりんと醤油を入れて割り下にする。
その割り下で少し玉葱を煮て、それから小さく切った鶏肉。
鶏肉は煮えにくいから長めにやって、
そうして溶き卵。
2個を2回にわけて流し込む。
あの親子丼を作るためだけにある、
おたまのお化けみたいな鍋は持っていないので、
一人暮らし時代から愛用している小さめのフライパンで作った。
そうしたらやはり大きな親子丼ができてしまって、
食べきるのが大変だった。
が、味はなかなかに良く、
心ゆくまで親子丼を堪能できた。
今日は豚肉の生姜焼きを作った。
少し醤油を入れすぎたが、山盛りのキャベツの千切りとともにいただいた。
料理は、時間を取られるし、始めるまでが億劫だけど、
いざ始めてしまうと楽しい。
料理の中で包丁で何かを切る工程がすきだ。
料理という行為は平和で牧歌的なイメージがあるが、
実はやってることをよく見てみるとそうでもない。
けっこう猟奇的なことをやっている。
包丁で切るというのはよくよく考えれば怖い行為である。
野菜だとそれほどでもないが、鶏肉や豚肉を切ることを考えれば
わかるであろう。
単にこっちが食べる側だから、包丁で切ったりしているけど、
もしかしたら自分が切られる側に回るかもしれないのだから。
そんな考えが時々、ちらっと浮かびつつ、
料理を通して自分の内なる破壊衝動を満たしているのかもしれない。
ま、そこまで陰気で背徳的な気持ちではないにしても、
包丁でさーっとじゃがいもの皮が剥けていったり、
玉葱のみじん切りがざくざくとできていくのは気持ちがいい。
道具を使うこと自体が気持ちいいのだと思う。
それはマニュアルの自動車を運転したり、
何か機械を自分の思い通りに制御できたりすると気持ちがいいのと
同質のものだと思う。
それは生身の体ではできないことができるようになる、
というだけではないと思う。
例えば飛行機に乗れば空を飛べるわけだが、
乗客でいる限り、そこには飛ぶことを制御する感覚がない。
身体を動かして、それに対する手応えが返ってきて、
さらに意図した結果が実現されたり、
意図していなかった結果が実現されたりするのが
脳を気持ちよくさせるのだと思う。
feedback無しでも、actionは起こせるけれども、
それだと強化や学習のメカニズムは働かない。
手応えがないことをやり続けるというのは、
とても苦しいことなのだ。