水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」を読み終わった。
読み終わって改めて、水村さんのもつ危機感は正当だと思った。
途中、「女のヒステリーではないか」と思ったときもあったが、
やはり日本語が亡びるという危機感は正しいと思った。
国語の祝祭の時代は終わりを告げる。
この部分を読んで、改めて自分がテレビを見なくなった理由がわかった。
テレビの必要性はそれなりにあるのだろうけれども、
それなりに教養のあるひとならば、もはやテレビというものを
積極的に見ようとは思わないだろう。
もちろん、自分の知的欲求を満足させてくれるすばらしい番組が
皆無と言うことはない。
だけど、数多ある番組の中でそういう番組に出会える確率はとても低く、
番組表をチェックしたりテレビをザップして試しに見てみたりする
時間を投資するほどの価値がもはやない。
もっとも見る価値があると思える番組が放送される確率が高いと
個人的に思っているNHKでさえ、
そのような視聴者を満足させようという気はないらしい。
池田信夫氏のブログで以下の記述を目にしたときに唖然とした。
やってられるか。
テレビばかりを観る<叡智を求める人>というのはいるのだろうか?
テレビ<しか>見ないという例は? - 404 Blog Not Found
テレビマンと呼ばれる人たちが、とてつもない熱意を持って、
番組を制作しているのは否定しないし、実際そうなのだろう。
だけど、結局テレビの持つ因習的な狭い文脈にがんじがらめにされてしまっている。
いくら全力を尽くしたところで、
小さな檻の中でキャンキャン吠えてるのと大差ない。
テレビがマスメディアであることは今後も変わらないだろうけど、
メジャーなメディアの座から凋落していくのは間違いないと思う。
それは新聞も同じで、新聞の方がすでに危うい。
今の新聞はもうできあがったテンプレートに素材(情報)を流し込むだけで、
情報以上の価値がない。
むしろテンプレートのバイアスのおかげで価値が下がる。
複数あるテンプレート同士の矛盾や整合性のメンテナンスも
おざなりだし、
テンプレートに収まらない情報は捨てられる。
朝日、読売、毎日と、違う新聞社の記事を読みあさったところで
その多様性はたかがしれている。
アサヒとキリンみたいなものだ。
そういうことに気付いてしまっている人たちにとって、
もはや日本で流通するマスメディアを参照する気にはなれないだろう。
そうやって日本語衰退の道はすでにはじまっているんだ。
日本語という母語で学問ができる場所と時代に生きていることが、
実は奇跡であり、かつ奇跡"だった"のだと、
その幸運に感謝する。