最近は某指導教官の人もなさっているという
トイレに「積ん読」をしている。
(いや、トイレで積ん読のほうが正しいか?)
どうもこの方式は自分の性質に合っていたらしく、
用を足すついでに1,2分でさくっと読んで出るというのが
習慣になってしまった。
興が乗ると5分とか"延長"してトイレにこもっている。
いまや読む文章のほとんどが英語なので、
単純に日本語の文章を読むというだけで心地よい。
用を足してほっとしつつ、日本語が読めて気持ちいい。
2重に気持ちいいのである。
いま読んでいるのは中古で105円で買ってきた、
清水幾太郎の「論文の書き方」という本。
アマゾンの書評に次のような一節があった:
"あなたのキーワードが「清水幾太郎」なら勧める。
「論文の書き方」なら勧めない。"
この評が的を射ていると思った。
読んでいて、いろいろと納得することがあり、
やはり一流の物書きというのは
これぐらい日本語という武器の扱いに自覚的でなくてはだめなんだなと、
知ることができた。
長年かけて丁寧に手入れしてきた絶大な切れ味のナイフを
見せてもらったような感じだった。