ふと気を緩めると、すべてが瓦解しそうになる。
根拠のない自信だけを拠り所にして立っている。
あまりにも性急に、背負いすぎだと言われても、自分もそう思う。
目を閉じて、また開くだけ。
それぐらいの簡単さで
世界をまっくらにすることもできる。
だから、また閉じてまた開いて、明るい世界を見るようにする。
それでも今日はなんだか、そうすることがとても難しかった。
けれど、明日になれば、また、大丈夫でしょう。
いまだかつて、こんなにやる気になっていることはない。
でも、功を急いではいけない。
それでも糊口をしのがなければならない。
自由意志の問題は、自分の中では、答えがでていて、
それは幻想なのだ。
ただ、そういう「感じ」がしているだけなのだ。
でも悲しむ必要はなくて、
その幻想、その「感じ」だけで十分で、ちゃんと我々は自由なのだ。
自由というのはそういう感じを抱けることを指すのだ。
微分方程式で厳密に決められていても、
確率的にしか決まっていない予測のできないものであって、
それがどっちであるかということと自由は関係がない。
我々の次の瞬間以降の行動が、すべてこの瞬間に記述できたとしても
やはり我々は自由である。
未来に我々がどう行動するか分からない限り、
それは決まっていないのと一緒である。
未来の行動が決まっていようがいまいが、
「自由だ」という感触さえあれば、それでよい。
と、いまそう思ってしまっているので、
「自由な感じ」というものを生み出している機構がどのようなものかを
考えた方がいいのではないかという気になっている。
そもそも、そのような「感じ」をうむ機構は
主観的意識体験(意識)を生じさせている機構によって
生じているはずである。
意識が生じるメカニズムを知ることなしに、
「自由な感じ」を生み出しているメカニズムを
調べることができるのか?
修論の時にやりたかったことが、
やっとこさ、自覚できて、
さらに言語化して表現する勇気がでてきた。
厳密には、当時もそれなりに自覚はあったのだけど、
言語化して表現する"勇気"がなかったのだとわかってきた。
つっ、と生まれる衝動、あるいは意図、あるいは志向性について考えていた。
それは、
「AにするかBにするか、うんBにしよう」
というように意識の俎上で判断がなされ、
Bという出力が出てくる過程とは異なっていると思っていた。
しかしやはり、それらをempirialに区別することができない。
「AにするかBにするか、うんBにしよう」←[1]
「・・・・・・・・・・、あ、Bしよう」←[2]
この両者の本質的な差異は何か?
あるいは本質的には違わないのか?
Bというdecisionをする前に、その決定に関する
意識的な逡巡の有無が違いと言えば違いである。
だけど、それは本質的な差なのか?
そのためには、脳と心の関係について嫌な言明をしないといけない。
物質である脳がその複雑な活動によって意識的体験を
なんらかの方法で生み出している。
これは、コンセンサスが得られているはずだ。
では、意識的体験が脳活動に影響を及ぼす力を持っているか。
ここは正直わからない。
わからないけれども、YESと答えると怪しい宗教みたいになってくる。
だから、脳科学的なpolitically correctはNOである。
すなわち、意識的体験は脳活動に影響を及ぼさない。
そうなると、 [1]と[2]に本質的な差はないことになる。
何故なら、[1]のようにBをするという判断をするのに、
その前のAをしようかBをしようかという意識的体験が
あろうがなかろうが、関係ないからである。
それで、あのとき、オレが捉えたかったのは、
つっと湧き起こる感情についてである。
感情が、つっと湧き起こる時刻およびその内容は
当然その前に意識的には規定できない。
それは必ず無意識のプロセスによって、
そして到底意識化されない膨大で複雑な神経活動によって
生成される。
無意識というのは意識化されていない脳の神経活動のすべてのことで
それ以上でも以下でもない。
結局、あるイベントが起こる機序は到底わからなそうだから、
その発生確率を見積もるようなことをすればいいのか。
でも、あのトライアル数、あの制限時間で
分布の形の推定を統計的に十分な精度で行えるとはとても思えない。
では、どの程度だったらよかったのか?
それを正確に計算したあとに、追試を行うのはどうだろうか。
ただ、もっとも近い分布が分かったとして、
それはやっぱり自由とは関係ない。
じゃあ、なんななんだ?