「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」
水村 美苗
この本がとてもすばらしい。
彼女に、「これ、いいんだよ、はい」と
ちょっと押しつけがましく渡されたのがきっかけで、
読み始めたのだけど、
いつのまにか真剣に読んでいた。
まず、この本の日本語が美しい。
何よりも先にその点において不意打ちを食らった。
そうして自分がいかに美しい日本語を書くこと・読むことに無自覚であり
それらに関する感性が低いことを猛省した。
文体に冬の早朝の空気のような凛とした緊張感がある。
硬質な文体なのだけど、無機質さや冷たさは感じられず、
むしろ熱を感じる。
実はまだ半分しかよんでなくて、これを書いているのだけど、
冒頭は「熱い」というより「けだるい」熱っぽさを帯びている。
それが次第に危機感をまとった熱さになってくる。
いや、ほんと、こうやって日本語を書き連ねているのが
恥ずかしくなるぐらいきれいな文章なのだ。
普段目にしている日本語が薄汚れてみえるほどに。
内容はタイトルからいくらか推測できるだろうか。
「日本語が亡びるとき」
かなりラディカルなタイトルだと思う。
最近の若い人のしゃべる日本語は乱れてしまって仕方がない、
とかいう話では全然ない。
端的に言ってしまえば英語の台頭によって、
日本語はその存在感をなくす、というものだ。
まだ半分までしか読んでいないので、
最後まで読んだら違うことが書いてあるのかもしれないけれど、
日本語が亡びるというのは日本語を話す人がいなくなるというわけではなくて、
日本語によって世界で最高の水準の知的生産活動がなされなくなる、
ということだと思う。
それは、現段階でももうかなり進行してしまっていて、
日本語で書かれた論文は、その存在感がゼロに等しい。
現在では研究者は研究した内容を英語で発表しなければ、
それは研究しなかったのと同じことだし、
研究者が読むものあるいは聞くものといったら英語によるものだ。
そうしてそれは日本語だけではなくドイツ語やフランス語でも同じなのである。
この本を読む前は
「いまは英語が流行っているけど、昔は物理はドイツ語だったし、
外交ではフランス語だった。
そのうちまた違う言語が流行るだろう。
その時は日本語が流行るかもしれない。」
というぐらいに思っていたが、
その認識は甘かったことを痛感した。
言語にはネットワーク外部性の性質があるのだ。
使っている人が多ければそれを覚える方が有利である。
だからそれを使うようになる。
そうして使う人が増えて、さらに便利になる。
現在の英語の普及率を考えると、
もはや正のフィードバックを押しとどめることはほとんど不可能だろう。
「英語はラテン語のような普遍語になりつつある」という指摘は、
目から鱗だった。
そうか、英語は現代のラテン語なのか。
いままで、英語というものを読んだり書いたり話したりしなくては
(研究者としては)やっていけないということに関して、
苦々しくやや屈辱的な気持ちがあったが、
昔の人々にとってのラテン語である、という指摘で、
その負の感情はすとんと落ちた気がした。
ラテン語ならば仕方がない、と思える。
それにしても本当に、日本語は亡びるだろうか?
それは、あり得そうな気がする。
実際、現在見るべき日本語でなされた知的生産物は少ない。
本だけでなく、新聞、テレビなどを通じて日本語で伝えられる言説に
現在の人類が生み出し得るもっとも高い水準の知的な営為を
感じられることは少ない。
本屋の店頭には「またこの著者は本を出したのか」と
本屋に入るたび思うほどに、
決まった著者の本が平積みになっていたりする。
それも内容は前著の希釈か反復であることが往々にして。
実はこの本はネット上でも物議を醸していることを
いまさらながらに知る。
梅田望夫さんがこの本のことをブログ上で絶賛して、
数百のハテブが付き、コメントが付いた。
しかしそのコメントの質の低さを梅田さんがtwitterで漏らしたら、
それに対する反発でtwitterが炎上して
さらに注目を集め、amazonではこの本が一時品薄になったらしい。
ネットをサーフして、適当に"典型的"と思われる反応を
ザップしてみたのだけど、
日本語で発言したり日本語で情報を収集したりする気を
大幅に削ぐものばかりだった。
日本語は亡ぶだろうか?
100年後にタイ語やリトアニア語のような完全にローカルな言語に
なっているということはあると思う。
でも、日本語を話す人がいなくなるということはないと思う。
でも、200年、300年経ったときはわからない。
極度の愛国主義者たちが片言の日本語で会話するのが関の山で
人々の日常会話は英語になっているかもしれない。