金曜日にあることを決めた。
12/4に「あることをしよう」と決めた。
それは積極的にする理由がなく、
かといってしないでいなければならない理由もなかった。
ただ、しない方が無難、ではあった。
一方で、事実上そうしてるも同然、という事実もあった。
何故金曜日にそうすることを決めたかといえば、
正直に白状すると酔った勢いなのだけれど、
そうしても大丈夫だという確信は、
その時も今も変わらない。
その時に、思ってしまったのだ。
自分には、そうすることを祝福してくれるひとたちがいて、
なおかつその人たちは自分たちを支えてくれるに違いないと。
自分は世知辛く吹きっ晒しの荒野にいるのではなく、
暖かい人たちの集まりの中にいるのだと、
世界がそう見えた。
その選択をすることは取り返しのつかないことだ。
オレはこれから取り返しのつかないことをするんだ、
ということをまざまざと感じる。
でも不思議と興奮はしなくて、淡々としている。
つい2、3年前ならそうすることは想像もできなかったはずなのに、
どういうことなのだろう。
何かが決定的に変わったのに、
何が変わったのかよくわからない。
ひとつ言えることは、
もう自分が物事にナイーブでいることを是としなくなった。
そうして、そういう態度をとるようになってから、
自分の中の構造変化が起こったように思う。
これから取り返しのつかないことをする。
でも実は、取り返しのつくことなんて一つもないのではないか、
という気もする。
生きることは、絶え間ない動作の連鎖だ。
コップを口に運ぶ動作も、
郵便受けの中をのぞく動作も、
誰かに笑いかける動作も、
全部、
いずれやってくる取り返しのつかない動作につながっている。
日常のあらゆる選択が、
未来のあり得たはずの可能性を奪っていく。
それは取り返しがつかない。
そう考えると、これからする取り返しのつかないことが、
今の自分にとって一番自然な行いに思えてきてならない。