フェムトセカンド #七味とーがラジオ / @melonsode

The Destination is unknown. The Journey is the Reward.
Author: 野澤真一 / NOZAWA Shinichi , version 2.0220330 / Podcast: 七味とーがラジオ / twitter: @melonsode

libertarian, sceptic, compatibilist

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まだ読み進められなくて、相変わらず一章をうろうろ。
でもこの本で語られている考え方が頭の中でまとまってきた。

***

自由意志と決定論は両立しないものだと
考えられてきたし、
直感的にはそう考えるのが自然だろう。

われわれがどのように振る舞うかということは
われわれの意志にもとづいていて、
その意志は何者にも束縛されない。
それが直感的に浮かぶ自由意志のイメージだろう。

しかし、そこに17世紀に誕生した近代物理学が立ちはだかる。
すべての物質の振る舞いは、
究極的には方程式で記述することができ、
ある時刻の物質の状態がすべてわかれば、
その後の時間発展はすべて方程式によって
演繹可能であるというのが決定論である。

意志を生み出す臓器として現時点でもっとも確からしいのは
脳であり、脳もまた物質によって構成されている。
決定論が成立するならば、
意志を生み出す臓器である脳の振る舞いが記述できたとときに、
われわれの意志というものも予測可能になってしまい、
もはや自由とは呼べなくなってしまう。

量子力学によると物質の運動量と位置を同時に決定することは
できず、運動量を精確に測定しようとすれば位置の精確さが
犠牲になり、位置を精確に測定しようとすれば
逆に運動量の精確さが犠牲になり、
両方を同時に一定以上の精確さで決定することはできない。
これによりミクロな世界における決定論は崩れ去るのであるが、
世界を決定的に記述することができないということは
自由意志を救うであろうか?

物理過程が非決定的ならば、
物事の振る舞いは何によって決まるのか。
木から落ちる葉っぱの振る舞いや、
つま先で蹴った石ころの行き先。
それらは偶然そのような軌跡を辿っただけなのだろうか。
それならば意志をもって行った"つもり"のあなたのその行為も
偶然にそのようになっただけということになりはしないか。
偶然になったことを意志と呼んでいいのか。
そしてあらかじめ決めることの出来なかったその行為は
自由であるのか。

自由意志と決定論が両立しない(incompatible)とする立場をとる人は、
結局次のどちらかになってしまう。
決定論を認めて、自由なんてないとする懐疑論者(scepticism)。
決定論を認めず、我々はあくまで自由だと主張する自由論者(libertarianism)。
そうして、自由論者は風に舞い上がる砂の粒の振る舞いと
コーヒーカップに手を伸ばすという意志を持った行動のうち、
後者が真に自由な行動であることを説明できなくてはならない。
おそらく、誰も出来ないだろう。

Libertarians must be able to explain how the causally undetermined
events that they see as free actions really that: genuine free actions.
They must explain, despite of its being to some degree of chancy whether they occur,
these purported free actions differ from movements, such as reflexes and twitches,
that are blindly random.
(うまく表現できないので抜粋)

だから、現代の哲学者のほとんどは、懐疑論者になるか、
そもそも自由意志と決定論が両立"しなくはない"とする
両立論者(compatibilism)の立場をとる。

  • incompatibilism
    • sceptism
    • libertatianism
  • compatibilism

***

libertarian、libertarianismという言葉遣いがよく分からなかったんだけど、
incompatibilismな立場においてややナイーブに自由意志が
成立しうることを主張する、ようなスタンスのことかと思う。

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