The Destination is unknown. The Journey is the Reward.

Author: 野澤真一 / NOZAWA Shinichi , version 2.0110115

お葬式の機能

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昨日、今日と立て続けにお葬式だった。
いや、正確に言うと「お別れの会」だった。

普通のお葬式は、皆が黒いスーツに、黒いネクタイの喪服でやってきて、
受付で芳名録に名前を書いて、
「この度はご愁傷さまでした」といいながらお香典を出し、
それから列に並んでお焼香の順番を待つ。
自分の番がきたら、喪主や親族の方々に会釈をして、
それから亡くなった方の遺影か遺体かその両方に会釈をしてから、
お焼香をする。
それからお清め所に通されて、料理をいただいてその場を後にする。

一方で「お別れの会」では、それとはだいぶ趣きが異なる。
お別れの会では上に書いたようなことをほとんど何もしないし、
喪服も着ないし、お香典も持っていかない。
ただ一輪の花を渡されて献花する。
遺体と遺影の前にその花を供えて、
次の間に通されて、そこで立食形式の料理をいただいく。
食事をいただく前に、遺族と話してもよいし、
手短に済ませて立ち去るのも自由だ。

「お別れの会」は、本当にそれだけの恐ろしくシンプルなお葬式だった。
お香典も出さずにこんなにご馳走をいただいてしまってよいのだろうか、と
思ったが、ほとんど遠慮せずにいただいてしまった。

遠慮しなかったのは用意された料理が招かれた人の数に対して多すぎると思ったからで、
遺族が我々をもてなそうとして用意してくれたそれらが
無駄になるのは申し訳ないと思ったからだ。
食べながら、普通にやる葬儀と比べて、遺族の負担する金額は
どのぐらい違うのだろうかと考えた。
僕の父はガス屋の仕事をしている傍らで、
一時期だが葬儀屋も経営していたことがあり、
葬儀屋の裏側のカラクリがぼんやりとだが知っているので、
具体的な根拠はないが、それほど変わらないような気がした。

この「お別れの会」という形式はあまりにあっけなさすぎると思うし、
印象に残ったのはどちらかというと献花よりも料理のほうだったのだが、
でも、この方向性は悪くないと思った。
前の記事で書いた、「新しいフォーマット」はすでに芽吹いていると
いうことなのかもしれない。

念仏も戒名も僕らの心には届かない。
ご愁傷さまでしたという言葉は定型化し過ぎてしまって、
どんなにそれらしく声に出してみたところで虚しい。
お焼香によって体現しているであろう何かしらの精神性がわかっていないし、
例え書物などで読んでその意味を知ったとしても、
それを身体のレベルで理解していなければやはり虚しいだけだ。

誰かが亡くなって、その直後に行われる儀式として、
宗教への信仰を持っていない人々にとってふさわしいものはどういうものか。
誰かが亡くなったあとにとる行動として経済的な合理性があったり、
遺族の悲しみがすこしでもやわらぐような行動は何か。

お香典は相互扶助の意味合いにおいて非常に有効な手段であると思う。
誰かをなくすことで生じる経済的な損失を埋めてくれる。
それは遺族以外の人にとっての保険の掛け金であり、
遺族にとっては保険金である。
社会全体で、お香典を差し出す行動様式があれば、
自分がいつか遺族の番になったときに、
同じように経済的な支援を受けられるという意味で
保険である。

現代の問題は、掛け金がきちんと保険金として支払われないことだと思う。
お香典をだしても、それはたいしてうまくはない食事代と、
別に欲しくもない香典返しの品物代となって、
業者の懐に入ってしまい、
遺族の懐に入る頃にはだいぶ目減りしてしまっている。

そのことにみんな薄々気付いているのではないかと思う。
しかし、お葬式とはこういうものだし、
それを批判することは道徳的に忌避すべきとみなされているので、
声に出せないし、それが刷り込まれているから
無意識的にそのような着想が意識にのぼらないよう
抑制されているのだろう。

半分をドブに捨てさせることで、もう半分をもらう、というやりかたを、
僕は是としないし、それならいっそ保険金の受け取りは拒否して、
お葬式のもうひとつの機能である、その人が死んだことを
知らしめるという機能に徹したほうがましだ、と思ってしまう。

「お別れの会」の背後にある意図を僕はそんな風にとらえた。

それはこれからの時代にリアリティのあるひとつのフォーマットであると思う。

しかし、相互扶助の機能を完全になくしてしまっていいのかは
よくわからないし、
もっと効果的な方法を生み出せるのなら、
相互扶助の機能は残したほうがいいと思う。

僕は敢えて、保険の例えを出して、
お葬式を功利的に表現したけれども、
お葬式の根底には遺族の悲しみがあり、
そして、その人達を見守る周りの人々の善意があると信じている。

遺族が悲しみにくれるのと同じぐらい必然的に、
そのまわりの人々はその遺族を支えたい、力になりたいと思うはずだ。
その、周りの人たちの善意の気持ちの向かう先を作る上でも、
相互扶助という機能は持たせたほうがよいと思うのである。

コメント(1)

何度目かのコメントをさせてもらいます。

私はまだ両親健在で、そこまでリアルに身近な人の葬儀について考えたことがありません。
ただ、私は今年2月に結婚して、色々な方からご祝儀をもらうという経験をしたので同じようなことを思ったのです。
家族だけの式を挙げ、友人だけを呼ぶシンプルなお披露目会を行いました。しかしその他にもあまり付き合いのない親戚関係からも当然のことのようにお祝いを贈られ、礼儀としてお返しをしなければならない。特にお祝いの言葉が添えられていたわけでもなく、モノだけのやりとり。そこに私としてはありがたみは全くなく、なにか空虚な感じがありました。だから私は、その気持ちを手紙に書いて、お祝いもお返ししたのです。
これまでに紆余曲折あった親戚関係なので、もともとうまくいっていたわけではないのですが、やはりこの件に関しても良い印象は抱かれなかったようです。気持ちはすべて手紙に込めたので、理解はされましたが。

冠婚葬祭について「新しいフォーマット」はやはり必要だと思います。今までのやり方にこだわる人とは多少の衝突もあるでしょうが、当人の考え方がもっとも反映されるやり方を伝える方が、よほど人間味があって心に残るのではないでしょうか。

最近の野澤さんの記事は刺さるものばかりです。頑張ってください。
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