フェムトセカンド #七味とーがラジオ / @melonsode

The Destination is unknown. The Journey is the Reward.
Author: 野澤真一 / NOZAWA Shinichi , version 2.0220330 / Podcast: 七味とーがラジオ / twitter: @melonsode

盆と彼岸の間

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先日書いた「新盆」という記事には茂木さんがtwitterで呟いてくれたおかげで
11件もコメントをいただいた。
アクセス数をみても台風並の瞬間最大風速で、
たくさんの人によんでもらえたのが嬉しかった。

いただいたコメントのほとんどが僕と同じく大切な人を失ったひとたちからで、
しかもその方たちが吐露するように書いてくださったコメントが
どれも美しかった。
それらのコメントを読んで、癒された。
同じような思いの人たちがいるというのが、
なんだかありがたかった。

コメントをくださった方達はそれぞれ境遇も失った人との関係も
亡くなった理由も時期も同じではないけれど、
その死者を思う気持ちは驚くほど似通っているように思われた。

お盆のあのとき、死者を思う気持ちというのを初めて経験していた。
それはすごく私秘的で、誰かと共有できるとは思っていなかった。
だからこそ、コメントを読んで、その言葉の端々から自分の感じているものと
似たもの感じられたので、驚いた。
大切な人を喪ったあとの感情というのは、
自分で思っていた以上に普遍的なものなのかもしれない。

あの記事ではその感情を「悲しいでは到底表しきれないほど複雑な感情」と
書いたけれど、悲しいの他のもうひとつの成分がわかった。
それは怒りだった。
怒りの対象は絶えず揺らぎ続けていて、
死んだ本人に向かい、自分に向かい家族に向かい、
この国全体に向かう。
怒りはやがて行き場をなくして、諦観に変わる。
仕方がなかったんだと。
そしてまた何かの拍子で怒りが生まれる。
怒りと諦観の堂々巡り。

死者を弔うのははじめてで、どうすればよいのかよくわからなかった。
正直、葬式も49日の法要も自分にはしっくりこなかった。

たくさんの弔問客に来ていただいて、それは本当にありがたいことなにだが、
弔問客がすべてお焼香を挙げ終わる間、ずっと自動機械のように
何度も何度も何度もお辞儀をしなければならなかったし、
坊さんが唱えているお経の意味はさっぱりわからなかった。
弔問客がちゃんとお清め所で食事を食べられているか気がかりだったし、
香典返し品をきちんと渡せているか気がかりだった。
次の日の告別式の段取りもつめなければならなくて、気が気ではなかった。

お焼香が終わって、お坊さんと向かい合って食事を取っているときの違和感も
かなりのものだった。
父も自分も母も妹も一度も面識のない知らないお寺のお坊さんに
お経を読んで貰って、「きっと安らかに眠っておられます」とかいわれても、
それはなんの弔いにも慰めにもならないのではないか。
すくなくともそれは自分にとっては弔いでも慰めでもなかった。

改めて日本というシステムが耐用年数を切らしているのだと痛感した。
僕があのお葬式で感じた違和感や戸惑いは、
「一般常識がない」と切り捨てるのは簡単だ。
けれど、そういう人間を作ってしまった時点で日本の文化とか伝統を営むシステムは
きちんとしなくなっているということだ。

それを一番最初に感じたのは結婚式のときだった。
婚礼に関する結納などの様々なしきたりとされているものが
ことごとくピンとこなかった。
結婚式のガイド的な本をみながら、
まったく普遍性や必然性を感じられなかった。
テーブルの配置だとか式の進行の手順だとか。

それからもう、結婚式に関するひとつひとつのことを考えて考えた。
これはお披露目であり、おもてなしであり、自己満足なのだと
半ば開き直っていろいろなことをきめた。
料理のメニューやかける音楽、
テーブルクロスや花の色、
余興の人選、衣装などなど。
なぜそうするのか、必然性や意味をできる限り
自分で納得できるものにしようと努めた。

終わってみれば月並みな式だったようにも思えるが、
ひとつひとつの所作を自分で考え抜いて納得できたので、満足している。

そういうひとつひとつの所作を納得してやるということが、
父の葬儀の時にはできなかった。
ひとつはとてもそんなことを考える時間的な余裕がなかったのもあるが、
決定的なのは、結婚式が基本的に結婚する本人たちのためにやるのに対し、
葬式は残された人々全員のためにやるのだということである。

オレ自信が、坊さん呼んで、お経を唱えてもらって、
お焼香してくれる人々に何度も何度も頭を下げるという葬式に
何のリアリティも感じられないからと言って、
全然違うやり方の葬儀にしてしまったら、
今度は父と同世代の人々が戸惑うに違いなく、
こんどは彼等がそのような葬儀に弔いのリアリティを感じられなくなる。
だから結婚式のように本人たちの嗜好に寄り添うことはできず、
最大公約数的なやりかたになる。

そういう上の世代がいずれいなくなったときに、
そういう旧来のやり方にリアリティを感じられない僕らは
どういうやり方でやったらいいんだろうか?

僕はそろそろ新しいフォーマットを生み出す時期なのではないかと思っている。

そんなことを考えていたので、
お盆のあの時期はひねくれていたのだ。
お盆->死者の弔い ->墓参り
そういう発想が納得いかなくて、
お盆に死者が帰ってくるという信仰も受け入れる気にはならなかった。

そういうひねくれものには、あの日のあの出来事は決定的であった。
新しいフォーマットはおいおい考えてゆくとして、
この感情に寄り添っていればひとまずよいのだと。



コメント(1)

まだ若いのだから仕方がないと言えばそれまでですが、君は既に一国の主(社長)なのだから言い訳などは通用しなくなっているのも事実です。(瞬時の判断=危機管理)

私の好きな言葉に「一期一会」があります。
常にその出会いに感謝しつつその時々を大事にする事です。
結婚式は日取りが決まってますが、お葬式は突然とやって来るものであり身構える事も出来ませんが、そこで会う方々は故人に対し所縁のあった方々なのですから大事にしてください。

世間は狭いもので人を廻りまわって自分に戻ってきます。

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